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旧ブログ記事を更新(初出2019年4月19日)
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このページで紹介している氏神とは、鎮守神社のような地元の神様のことではなく、同じ氏族共通の神様の事です。いわば、あなたの御先祖様に当たる神様です。

安田(やすだ)

安田財閥を築いた安田善次郎さんの子孫の人は、愛宕社です。
住所は富山県富山市愛宕町2-6-10です。

柳沢(やなぎさわ)

柳澤神社(やなぎさわじんじゃ)です。住所は奈良県大和郡山市城内町(ならけんやまとこおりやましじょうないちょう)2-18です。
石和八幡神社(いさわはちまんじんじゃ)です。住所は山梨県笛吹市石和町市部(やまなしけんふえふきしいさわちょういちべ)1094です。
武田八幡宮です。住所は山梨県韮崎市神山町北宮地(やまなしけんにらさきしかみやままちきたみやじ)1185です。
柳沢氏は、清和源氏義満流武田氏の一条信長を開祖とする甲斐一条氏であり、武川衆と呼ばれた武士団の内の一家です。武田氏滅亡後は徳川家に仕官して、徳川綱吉の時代に柳沢吉保が御側用人として活躍して、大和郡山15万石の大名になりました。

山内(やまうち)

山内神社(やまうちじんじゃ)です。
土佐藩初代藩主山内一豊、千代夫人、以下歴代藩主が祀られています。

山田(やまだ)

北条八幡宮(ほうじょうはちまんぐう)です。住所は鳥取県東伯郡北栄町北尾(とっとりけんとうはくぐんほくえいちょうきたお)365です。
伯耆山田氏は、氏姓は不明だそうです。紀氏の可能性があるらしい。山田氏は久米郡北条郷(鳥取県東伯郡北栄町北条島(とっとりけんとうはくぐんほくえいちょうほうじょうしま))を本貫とし、堤城(つつみじょう)を領有していたそうです。北条八幡宮は山田氏が堤城の守護神として京都石清水八幡宮から勧請したそうです。
波豆八幡神社(はずはちまんじんじゃ)です。
住所は兵庫県宝塚市波豆字谷田東掛2(ひょうごけんたからづかしはずたにだひがしがかり)です。
尾張山田氏は、清和源氏源満政(みなもとのみつまさ)の子孫の山田重忠(やまだしげただ)が、源頼朝に尾張国山田郡山田荘(愛知県名古屋市北区山田町(あいちけんなごやしきたくやまだちょう))の地頭に任命された事から山田氏と称したそうです。

山中(やまなか)

鴻池神社(こうのいけじんじゃ)です。住所は兵庫県伊丹市鴻池(ひょうごけんいたみしこうのいけ)6丁目22-52です。
この神社は鴻池の鎮守社です。鴻池で酒造業を営んでいた鴻池村山中総本家が度々(たびたび)寄進をしていたようです。
鴻池稲荷(こうのいけいなり)です。住所は兵庫県伊丹市鴻池(ひょうごけんいたみしこうのいけ)6丁目14-21です。
鴻池村山中総本家の跡地が鴻池児童公園になっていて、その中にこの神社があります。指定文化財の鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が設置されています。その石碑には、鴻池村山中総本家にあった鴻池稲荷の祠が、宝暦(ほうれき)一三年(1763年)の秋の台風で壊れたため、20年後の天明(てんめい)四年(1784年)に親類がお金を出し合って祠を再建したと書かれています。鴻池村山中総本家は、14代山中新右衛門(山中元丘(やまなかもとおか))の代で断絶したため、稲荷神社も失われ、石碑もなくなってしまいました。
石碑は、明治年間に発見され、今橋鴻池家に買い取られて現在地に設置され、伊丹市指定文化財になりました。稲荷神社は改めて、大正一五年(1926年)10月31日に鴻池合名会社が鴻池村山中総本家の屋敷跡地を買い戻し、伏見稲荷を勧請して鎮座式を行ったそうです。
鴻池村山中総本家(山中新右衛門)の子孫はこれらの神社になります。
産土神社(うぶすなじんじゃ)です。住所は大阪府東大阪市南鴻池町(おおさかふひがしおおさかしみなみこうのいけちょう)2丁目1-10です。
この神社は大阪の豪商・鴻池家三代目、鴻池善右衛門宗利によって開墾された鴻池新田の鎮守神社です。創建時期は不明ですが、江戸時代までは鴻池家屋敷内に祭られていましたが、昭和一四年四月に現在地に遷座したそうです。
朝日社(あさひしゃ)です。住所は大阪府東大阪市鴻池元町(おおさかふひがしおおさかしこうのいけもとまち)2-30です。
朝日社は、宝永(ほうえい)二年(1705年)に天照大神を勧請して神明宮(しんめいぐう)として建立されました。新田開発者の三代目鴻池善右衛門(山中宗利(やまなかむねとし))も合祀(ごうし)されています。この神社は、国史跡・重要文化財「鴻池新田会所」の敷地内に鎮座しているのですが、非公開の鴻池家の神社であり、会所の学芸員も無断で境内に入ることはできませんし、一般参拝はできません。西側に隣接するショッピングセンターのグラナリーコートは、鴻池合資会社が所有・経営していて、本社もグラナリーコートにあるそうです。
鴻池善右衛門家の子孫はこれらの神社になります。
幸福稲荷神社(こうふくいなりじんじゃ)です。住所は広島県広島市西区草津本町(ひろしまけんひろしましにしくくさつほんまち)14-12です。
神社の由緒によると建徳(けんとく)元年(1370年)村内に火事が多く発生し村民一同困り果てていたので、建徳三年に村民一同申し合わせて小祠を建立して勧請してお祈りしたところ、霊験際立って表れ、その翌年よりは新たな火事が発生しなかったそうです。その後、毛利氏の武将児玉氏草津城主時代(1554年~1600年)吉和屋の所有になりましたが、村の鎮守神社として崇敬されたそうです。
清和源氏・源義家19代末裔と伝えられる草津の商人、吉和義兼(よしわよしかね)が、草津城主・児玉周防守の仲人で、山中幸盛の娘の盛江を正室に迎えたそうです。その子孫は、草津村で酒造業を営んで財産を蓄え、幸福稲荷神社周辺に広大な屋敷を持っていましたが、延宝(えんぽう)六年(1678年)に三次浅野支藩(みよしあさのしはん)が草津村の吉和屋山中総本家の屋敷内に御茶屋敷(藩の公的な宿泊施設)を設置した事により、吉和屋は屋敷内にて酒造業を行う事ができず廃業に追い込まれました。吉和屋は貞享(じょうきょう)四年(1687年)に草津村から五日市海老塩浜へ移転し、庄屋(しょうや)などの役職を務め、塩田を開発しましたが、江戸後期に没落しました。
吉和屋は、初代、吉和屋彌右衛門(山中常祐(やまなかつねすけ))の時に本姓を母の旧姓の山中に改め、父の性を屋号にしました。歴代の吉和屋山中総本家の当主は代々、吉和屋彌右衛門と名乗りました。
吉和屋山中総本家の子孫はこの神社になります。
油日神社(あぶらひじんじゃ)です。住所は滋賀県甲賀市甲賀町油日(しがけんこうかしこうかちょうあぶらひ)1042です。
創建時期は不明ですが、甲賀の総社です。甲賀武士五十三家が、総氏神として崇敬していたそうです。また、油の火の神として庶民の信仰も広く集めました。現在でも全国油業界の信仰が厚くあるそうです。
甲賀武士の山中氏は、橘氏の子孫といわれ、嘉禄(かろく)二年(1226年)、橘俊信(たちばなのとしのぶ)が、鈴鹿山の賊を退治した功(こう)によって、山中村地頭、鈴鹿山盗賊追捕使(とうぞくついぶし)に補任されたそうです。そして、山中村を領したことから、山中俊信(やまなかとしのぶ)と称したそうです。また山中氏は、伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨(みくりや)の地頭職に補任されたそうです。そのため、総領家は柏木に移りました。
戦国時代には六角氏の家来となり、六角氏から信頼された甲賀二十一家の中で、さらに柏木三家と称されるようになりました。六角氏が織田信長に敗れると織田信長の家来になり、次いで豊臣秀吉の家来になりますが、天正(てんしょう)十三年の甲賀破儀(こうかはぎ)によって、総領家最後の山中俊好(やまなかとしよし)も柏木荘を没収されて領地を失い、鈴鹿山麓・山中村へ戻ったのですが、関ヶ原の後に徳川氏の許可を得て甲賀の山中城に戻るも勢いが衰え、弘化(こうか)四年(1847年)に、子孫の山中俊哲(やまなかとしてつ)は水口藩士になったそうです。また、庶流の山中長俊(やまなかながとし)の子孫も、広島藩士や徳川旗本として存続したそうです。
橘氏流甲賀武士山中氏の子孫はこの神社になります。
山中氏では、山中鹿介(やまなかしかのすけ)こと、山中幸盛(やまなかゆきもり)が大変有名ですが、家系は不明な点が多い人物です。鴻池家と吉和屋は山中鹿介の子孫と言っていて、尼子氏流であると言うのですが、祖先の名前が佐々木氏の系図に記載されていないため、甲賀武士山中氏の支流が尼子氏の家来になったのかも知れません。

山本(やまもと)

総氏神のような神社は、無いようです。
鹿児島県の山本氏は、新田神社(にったじんじゃ)です。住所は鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2 です。

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以上

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