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旧ブログ記事を更新(初出2019年4月19日)
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このページで紹介している氏神とは、鎮守神社のような地元の神様のことではなく、同じ氏族共通の神様の事です。いわば、あなたの御先祖様に当たる神様です。

土居(どい)

清良神社(きよよしじんじゃ)です。住所は愛媛県宇和島市三間町土居中(えひめけんうわじましみまちょうどいなか)939です。
鈴木氏支流土居氏は、宇和郡土居中村(愛媛県宇和島市三間町土居中(えひめけんうわじましみまちょうどいなか))を与えられて土居氏と称したそうです。近くの龍泉寺には、土居清良廟(どいきよよしびょう)があり、土居氏歴代の墓があります。
城山神社(しろやまじんじゃ)です。住所は愛媛県松山市東石井(えひめけんまつやましひがしいしい)5丁目13-14です。
河野氏支流土居氏は、河野通成(こうのみちなり)が伊予国久米郡石井郷南土居(愛媛県松山市南土居町(えひめけんまつやましみなみどいまち))を本拠にして土居氏と称したそうです。土居氏が戦勝祈願所として、また、村民安全安泰のために石清水八幡宮から勧請したそうです。

東(とう、ひがし、あずま)

東大社(とうだいしゃ)です。住所は千葉県香取郡東庄町宮本(ちばけんかとりぐんとうのしょうまちみやもと)406です。
下総東氏(しもうさとうし)は、鎌倉時代の初めに千葉常胤(ちばつねたね)の六男、東胤頼(とうたねより)が下総国東荘(千葉県香取郡東庄町)を領したところ、東大社の神官から東(とう)の名字を譲ってもらって、東氏と称したそうです。東大社は東荘の氏神として崇敬され、東氏は社殿を造営し、代々信仰しました。
八幡神社(はちまんじんじゃ)です。住所は岐阜県郡上市八幡町小野(ぎふけんぐじょうしはちまんちょうおの)です。
この神社は郡上八幡の地名の由来となった神社です。元々は郡上八幡城の位置にあったのですが、永禄(えいろく)二年(1559年)、遠藤盛数(えんどうもりかず)が神社を現在地に遷座し、郡上八幡城を築城しました。以後、遠藤盛数と歴代の郡上藩主が崇敬したそうです。美濃東氏(みのとうし)は、東胤頼の孫、東胤行(とうたねゆき)が承久の乱の戦功によって、美濃国山田荘(岐阜県郡上市)の地頭になったことに始まります。戦国時代になると衰退し、庶流の遠藤氏と対立し、遠藤盛数に攻められて滅亡しました。以後、遠藤氏が東氏の家督を継承しました。江戸時代には美濃八幡藩主家となり、明治維新後、東氏に改姓しました。
上名久井諏訪神社(かみなくいすわじんじゃ)です。
住所は青森県三戸郡南部町高瀬宮野(あおもりけんさんのへぐんなんぶちょうたかせみやの)38です。
神社の由来によると、建久(けんきゅう)八年(1197年)、工藤祐経(くどうすけつね)の孫、工藤右京介(くどううきょうのすけ)が勧請し、東政勝(ひがしまさかつ)などが崇敬したそうです。東氏(ひがしし)は、南部氏の支流で南部政行(なんぶまさゆき)が開祖で東氏と称したそうです。また、その子、東重行(ひがししげゆき)は工藤氏の名跡も継いだそうです。
酒折宮(さかおりのみや)です。
東氏(あずまし)は、東国造(あずまのくにのみやつこ)の末裔だそうです。この神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)が、家臣に和歌で問いかけると、身分の低い火番の老人が返歌を返してきたので、この老人を東国造に任命したそうです。これが、連歌の始まりだそうです。

東郷(とうごう)

紫尾神社(しびじんじゃす。住所は鹿児島県薩摩郡さつま町紫尾(かごしまけんさつまぐんさつまちょうしび)2164です。
東郷氏は元は渋谷氏です。海軍元帥・東郷平八郎は東郷重弘(とうごうしげひろ)の次男の東郷実友(とうごうさねとも)の四男です。
東郷重弘(とうごうしげひろ)の氏神が紫尾権現です。

土岐(とき)

八幡神社(はちまんじんじゃ)です。住所は岐阜県土岐市妻木町(ぎふけんときしつまぎちょう)3051-1です。
土岐氏は、清和源氏・源頼光(みなもとのよりみつ)の子孫、摂津源氏・源頼国(みなもとのよりくに)の子孫が美濃国に土着し、美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えました。源頼国の子孫の土岐光衡(ときみつひら)は美濃国土岐郡一日市場館を本拠として土岐と称したそうです。この神社は土岐頼貞(ときよりさだ)が氏神として創建したそうです。
岐阜県瑞浪市土岐町一日市場(ぎふけんみずなみしときちょうひといちば)には、館(やかた)跡に「美濃源氏土岐氏発祥の地」の石碑が建っています。

徳川(とくがわ)

日光東照宮です。
徳川氏と同族の松平氏にとっても、氏神です。

豊島(としま)

平塚神社(ひらつかじんじゃ)です。
石神井氷川神社(しゃくじいひかわじんじゃ)です。
王子神社(おうじじんじゃ)です。
豊島氏は、平良文(たいらのよしふみ)流秩父氏支流で、武蔵国豊嶋郡(東京都のほぼ中心一帯)を本貫とした事から豊島氏と称したそうです。平塚神社は豊島氏の舘跡(やかたあと)と伝わっているそうです。豊島氏は石神井郷(しゃくじいごう)の一円支配を開始し、石神井城(しゃくじいじょう)を築いて本拠としました。石神井氷川神社は石神井城の守護神として祀ったのが始まりだそうです。王子神社は、豊島氏が再興し、熊野権現の浜王子(はまおうじ)神社から勧請したそうです。

土肥(どひ)

五所神社です。
土肥氏の本拠地にあります。土肥氏が建立したわけではありませんが、関係が深く氏神と言えるでしょう。
桓武平氏良文流の平宗平が相模国余綾郡中村荘(現在の小田原市・中村原や足柄上郡・中井町中村)の名前を取って、中村宗平と称しました。
中村宗平の子孫は、それぞれ、領地の地名を名乗りました。長男の重平は中村荘を継いで中村と称し、次男の実平は土肥氏を称し、実平の息子の遠平は小早川氏を称しました。三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏を称しました。
これらの人々を中村党と言い源頼朝の家来の中心になりました。ただし、本家の中村氏は勢力が振るわなかったようで、土肥氏が中村党を率いることになりました。

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以上

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