氏神神社(こ行)関連リンク。
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このページで紹介している氏神とは、鎮守神社のような地元の神様のことではなく、同じ氏族共通の神様の事です。いわば、あなたの御先祖様に当たる神様です。
小泉(こいずみ)
小泉神社(こいずみじんじゃ)です。住所は奈良県大和郡山市小泉町(ならけんやまとこおりやましこいずみちょう)2333です。
大和小泉氏は、大和郡山市小泉町のあたりを本拠とした国人領主で興福寺大乗院門跡防人(こうふくじだいじょういんもんぜきさきもり)であり、衆徒(しゅうと)です。小泉神社の本殿は重要文化財(建物)です。近くに小泉城跡があり、現在は石州流(せきしゅうりゅう)茶道宗家の本部になっています。
小泉神社(こいずみじんじゃ)です。住所は群馬県邑楽郡大泉町城之内(ぐんまけんおうらぐんおおいずみまちしろのうち)1丁目13-5です。
富岡氏流小泉氏は、古河公方足利成氏(ふるかわくぼうあしかがしげうじ)に邑楽郡小泉(おうらぐんこいずみ)を与えられて、小泉城(城之内公園)を建設しました。この富岡氏の支流が小泉氏です。
富士山本宮浅間大社です。
植松氏流小泉氏は小笠原氏の支流で、甲斐国を本貫とする植松氏を称し、初代植松信清(うえまつのぶきよ)が甲斐国小笠原(山梨県南アルプス市)から、駿河国富士郡小泉郷(静岡県富士宮市小泉)に移り住みました。ふだんは水不足で困っていながら、雪解けの季節には氾濫の害が多い富士山中腹の地に、二代目の植松信継(うえまつのぶつぐ)が鎌倉時代、約6kmの長さの鷹岡・伝法用水路と呼ばれる用水路を開削しました。以来明治初年まで682年の間、植松家は樋代官(とよだいかん)として、この用水路の管理・運営を司ってきました。(厚原の二本樋(どよ))
13代目植松泰清(うえまつやすきよ)の長男が小泉次大夫(こいずみじだゆう)です。小泉次大夫は徳川家譜代・井伊直政の傘下に入って手柄を立てましたが、戦闘で負傷し、歩行が不自由になったそうです。手柄を立てたので徳川家康に認められ、750石の知行と地名にちなんだ小泉姓を賜って旗本になりました。そして、武蔵国の徳川家の領地、稲毛・川崎5万石(神奈川県川崎市稲毛のあたり)の代官になりました。小泉次大夫が陣屋を設けた場所が、現在の神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町です。小泉次大夫は家康の命により、「六郷用水」と「二ヶ領用水」を開削し、付近の村の水不足を解消し、豊かな水田地帯にしました。
河野(こうの)
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)です。住所は愛媛県今治市大三島町宮浦3327です。
河野氏は、社家越智氏の支流です。
児玉(こだま)
金鑚神社(かなさなじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750です。
有氏神社(ありうじじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町下阿久原31の辺りです。
この神社は有道氏(児玉氏)の遠祖の墓所の可能性があるそうです。
児玉氏は、古代豪族の末裔で藤原伊周の家令をしていた有道惟能(ありみちこれよし)が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、児玉郡を開墾し、その息子である有道惟行(ありみちこれゆき)が児玉氏を名乗り、祖先になります。
直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗りました。
後藤(ごとう)
余田大歳神社(よでんおおとしじんじゃ)です。
住所は兵庫県神崎郡福崎町八千種(ひょうごけんかんざきぐんふくさきちょうやちくさ)1340です。
播磨後藤氏はこの神社です。神社によると、創立年は不詳ですが、春日山の城主後藤氏(後藤基明(ごとうもとあき)、後藤基信(ごとうもとのぶ))に厚く祀られてきたそうです。
後藤霊社(ごとうれいしゃ)です。住所は兵庫県姫路市山田町南山田(ひょうごけんひめじやまだちょうみなみやまだ)830-1の辺りです。
この神社は、後藤基次(ごとうもとつぐ)の居城だった南山田城跡に建っています。後藤基次とその一族を祀っています。
湯神社(ゆじんじゃ)です。住所は岡山県美作市湯郷(おかやまけんみまさかしゆのごう)771-2の道路の反対側です。
美作後藤氏はこの神社です。
武雄神社(たけおじんじゃ)です。
肥前後藤氏はこの神社です。
長坂野神社(ながさかのじんじゃ)です。住所は石川県金沢市長坂(いしかわけんかなざわしながさか)1丁目7-27です。
押野後藤家はこの神社です。
播磨後藤氏は、藤原北家利仁流の藤原公則(ふじわらのきんのり)が備後守となり後藤氏を名乗ったのが始まりだそうです。鎌倉時代末期、後藤氏・嫡流の後藤基明は、赤松則村(あかまつのりむら)に仕えて、後醍醐天皇のために戦い、播磨国に春日山城を築いて活躍したそうです。最後の春日山城主・後藤基信は豊臣秀吉の中国征伐によって滅んでしまったのですが、後藤基信の弟の後藤基国(ごとうもとくに)の子、後藤基次は、これを哀れんだ黒田孝高(くろだよしたか)に養育されました。成人後、後藤又兵衛(ごとうまたべい)と名乗った後藤基次は戦国時代の英雄として有名になりました。
美作後藤氏は、美作国の戦国大名で、播磨後藤氏の支流だそうです。本拠地は三星城であり、美作国を制覇しようとした宇喜多直家(うきたなおいえ)によって滅亡しました。観応(かんのう)元年(1350年)の山名義理(やまなよしただ)書状によると、後藤下野守が塩湯郷地頭職に推挙されたそうです。美作国塩湯郷地頭職掟書写(おきてかきうつし)によれば、その子孫の地頭・後藤良貞(ごとうよしさだ)は塩湯郷に対し、湯大明神(湯神社)を毎年修理するように定めているそうです。
肥前後藤氏は、藤原北家利仁流の藤原公則が肥後守となり後藤氏を名乗ったのが始まりだそうです。藤原公則の曽孫、後藤章明(ごとうあきまさ)が、肥前国墓崎(つかざき)(佐賀県武雄市(さがけんたけおし)一帯)の地頭になり、後藤章明の子、後藤資茂(ごとうすけしげ)が御船山麓の武雄神社を遷座させ、その跡地に塚崎城を築いて本拠としたそうです。
戦国大名富樫氏は、藤原北家利仁流で代々、石川県野々市市(いしかわけんののいちし)に館を構えて本拠とし、加賀国の守護職・加賀介を世襲していましたが、浄土真宗の一向一揆に敗れて滅びました。生き残った、富樫家俊(とがしいえとし)が名前を後藤弥右衛門(ごとうやえもん)と改めて、佐久間盛政(さくまもりまさ)に仕え、加賀藩の時代には、子孫は大庄屋になり、後藤太兵衛(ごとうたへえ)が長坂用水を開削して、新しい村を作ったそうです。長坂野神社には、後藤太兵衛(ごとうたへえ)の石碑が建てられています。子孫は、明治以後も旧押野村(金沢市・野々市市)の村長を務めたそうです。
小林(こばやし)
秩父神社です。
秩父平氏系小林氏は、桓武平氏流・秩父高山党の支流で緑野郡小林(みどのぐんこばやし)(群馬県藤岡市小林(ぐんまけんふじおかしこばやし))を本拠にしたので、小林氏と称したそうです。
諏訪大社 です。
諏訪姓小林氏は、諏訪氏の一族で信濃国伊那郡小林村(長野県飯田市(ながのけんいいだし))を本拠にしたので、小林氏と称したそうです。
高麗(こま)
高来神社(たかくじんじゃ)です。
住所は神奈川県中郡大磯町高麗(かながわけんなかぐんおおいそまちこま)2丁目9-47です。
高麗神社(こまじんじゃ)です。
日本で大化改新の頃、高句麗国(こうくりこく)が滅亡しました。その際、日本に亡命してきた人達が大勢いました。その中には高句麗(こうくり)王族の高麗王若光(こまこきしじゃっこう)がいました。高麗王若光が一族を率いて最初に住んだのが大磯町の高麗山(こまやま)の麓にある化粧坂近辺でした。江戸時代まで菩提寺の高麗寺(こまでら)が高麗山の山中にあって、現在の高来神社も高麗神社(こまじんじゃ)として寺域内にありました。その後、高麗王若光の一族と関東各地に居住していた高麗人・約1799人は武蔵国に集められ、高麗郡(こまぐん)が設置されました。高麗王若光は郡司(ぐんじ)に命ぜられて郡を治めました。その子孫が60代続いて、現在は高麗神社の社家となっています。
狛(こま)
玉臺寺(ぎょくだいじ)内、狛弁財天(こまべんざいてん)です。
住所は京都府木津川市山城町椿井天敷堂(きょうとふきづがわしやましろちょうつばいてんじきどう)37です。
高句麗から日本に帰化した一族の中で高麗(こま)、狛(こま)、大狛(おおこま)氏と称していた氏族が、高句麗滅亡後に亡命してきた王族が高麗(こま)氏を称するようになったので、自らは狛(こま)氏を称するようになったそうです。元々、唐、高麗、百済(くだら)、新羅などで、雅楽や伎楽を伝えていたと言う事で、平安時代の南都楽所(なんとがくそ)に属し、狛宿禰(こますくね)姓を授かったそうです。一条天皇の長保(ちょうほう)三年(1001年)に左方の舞と楽の奉行を命ぜられた狛光高(こまみつたか)(995~1048)を開祖として狛氏は発展し、その子孫は雅楽家として現在まで続いています。
宇治上神社(うじがみじんじゃ)です。住所は京都府宇治市宇治山田(きょうとふうじしうじやまだ)59です。
宇治神社(うじじんじゃ)です。
狛光高の子孫は、平安末期以降、宇治網代司目代(うじあじろつかさもくだい)を世襲し、室町期まで真木島長者(惣官、村君)とよばれたそうです。そして、有名な平等院の対岸にある宇治神社の脇神主になりました。
小松(こまつ)
建部大社(たてべたいしゃ)です。
建部氏(たてべし)の子孫が禰寝氏(ねじめし)であり、その子孫が小松氏になったそうです。
近藤(こんどう)
藤原氏の氏神、春日大社です。
藤原秀郷の末裔、藤原脩行(ふじわらのながゆき)が近江掾(おうみのじょう)に任命されたことを誉れに思って、「近江の藤原」と称したのが近藤氏の由来です。
近藤神社(こんどうじんじゃ)です。住所は愛媛県西条市中野甲(えひめけんさいじょうしなかのこう)160-2です。
横山城主近藤長門守尚盛(こんどうながとのかみなおもり)を祀っているそうです。
滝神社(たきじんじゃ)です。住所は愛媛県新居浜市滝の宮町(えひめけんにいはましたきのみやちょう)10-32です。
近藤氏の祖霊を祀った三崎神社(みさきじんじゃ)が滝神社に合祀されたそうです。三崎神社旧跡も近所にあります。四国の近藤氏はこちらの神社です。
金野・今野・紺野・昆野・近野(こんの)
氷上神社(ひかみじんじゃ)です。住所は岩手県陸前高田市高田町字西和野(いわてけんりくぜんたかたしたかたちょうにしわの)83です。
この神社は気仙総鎮守です。金野氏は気仙郡、磐井郡を中心に勢力を伸ばした一族です。気仙郡司として郡内の金山から産出した金を朝廷に献上したから金姓を賜ったとも、新羅王族の子孫なので金姓であるともされます。「野」は未開発の広い地を表し、「金野」で金氏の広い土地を意味する名字です。
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