氏神神社(お行)関連リンク。
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このページで紹介している氏神とは、鎮守神社のような地元の神様のことではなく、同じ氏族共通の神様の事です。いわば、あなたの御先祖様に当たる神様です。
及川(おいかわ)
多田神社(ただじんじゃ)です。
及川氏は、源頼政(みなもとのよりまさ)を始祖とする摂津源氏で、馬場氏の支流です。
大井(おおい)
平群坐紀氏神社(へぐりにますきのうじじんじゃ)です。
住所は奈良県生駒郡平群町上庄(ならけんいこまぐんへぐりまちかみしょう)5丁目1です。
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)です。
紀氏流大井氏は、紀氏の紀長谷雄(きのはせお)の子孫にあたる大井実春(おおいさねはる)を開祖とします。武蔵国荏原郡大井郷(東京都品川区大井(とうきょうとしながわくおおい))を本拠として大井氏と称したそうです。
新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ)です。住所は長野県佐久市田口2394です。
小笠原流大井氏は、小笠原長清(おがさわらながきよ)の七男、大井朝光(おおいともみつ)が、承久(じょうきゅう)三年(1221年)の承久(じょうきゅう)の乱における「宇治川の合戦」の戦功により、信濃国佐久郡大井庄(長野県佐久市岩村田(ながのけんさくしいわむらた))を拝領し、地頭となって大井氏と称したそうです。
武田八幡宮です。住所は山梨県韮崎市神山町北宮地(やまなしけんにらさきしかみやままちきたみやじ)1185です。
武田氏流大井氏は、安芸守護・武田信武(たけだのぶたけ)が甲斐守護となり甲斐へ土着し、武田信武の三男、大井信明(おおいのぶあき)が甲斐国巨摩郡大井荘(山梨県南アルプス市鮎沢(やまなしけんみなみあるぷすしあゆざわ))を本拠地として大井氏を称したそうです。
大石(おおいし)
佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)です。
大石村主真人(おおいしすぐりまひと)という人が漢の王侯の末裔で、この神社の地に城を作って大石党の祖となったそうです。
大江(おおえ)
大枝神社(おおえじんじゃ)です。住所は京都市西京区大枝沓掛町(きょうとふきょうとしにしきょうくおおえくつかけちょう)7-52です。
大江氏は土師氏の支流で山城国乙訓郡大枝郷(京都市西京区大枝沓掛町)を本拠としていたようです。大枝諸上(おおえのもろがみ)が桓武天皇により、大枝という姓(かばね)を授かって大枝氏と称しました。その子孫の大江音人(おおえのおとんど)が貞観(じょうがん)8年(866年)10月に「大枝」から「大江」へと改姓したそうです。
大岡(おおおか)
豊川稲荷東京別院です。
大岡越前守忠相が豊川稲荷を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とします。
高田熊野神社です。住所は神奈川県茅ケ崎市高田1-10-44です。
茅ヶ崎市を本拠地とする大岡一族のうち、相模国高座郡高田村の地頭であった大岡忠高(大岡忠相の実父)が創建した神社です。
大岡白山神社です。住所は愛知県安城市大岡町宮東43です。
大岡氏は姓は藤原氏で、三河国八名郡大岡郷(愛知県新城市黒田字大岡)に住んだ事で名字を大岡にしたのが始まりだそうです。
その後、大岡氏は大岡明神(現在の大岡白山神社)の神職についたといわれています。
大木(おおき)
八坂神社(やさかじんじゃ)です。住所は福岡県みやま市瀬高町上庄(ふくおかけんみやましせたかまちかみしょう)163です。
大木氏は、筑後宇都宮氏の蒲池久憲(かまちひさのり)の弟である宇都宮資綱(うつのみやともつな)の子の、大木政長(おおきまさなが)を開祖とします。宇都宮氏第六代の宇都宮貞綱(うつのみやさだつな)の弟の宇都宮泰宗(うつのみややすむね)は、元寇(げんこう)の時に九州に下向し、筑後国山門郡瀬高(福岡県みやま市瀬高町(ふくおかけん
みやましせたかまち))の大木城を本拠にしました。大木政長は、宇都宮泰宗の本拠だった大木城を継ぎ大木氏と称したそうです。
大久保(おおくぼ)
糟目犬頭神社 (かすめけんとうじんじゃ)です。住所は愛知県岡崎市宮地町馬場(あいちけんおかざきしみやじちょうばば)31です。
この神社の由緒には、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)が、白犬の頭を切り落とした事が神社名の元になったと書かれています。また、新田義貞(にったよしさだ)の首塚という由緒のある摂社(弁財天社)も境内にあります。
大久保神社(おおくぼじんじゃ)です。住所は神奈川県小田原市城山3-27-7です。
大久保忠世(おおくぼただよ)と大久保忠真(おおくぼただざね)を祀っているそうです。
大久保氏は、宇都宮氏の末裔だそうです。宇都宮泰藤が南朝に属して新田義貞に従って各地で戦い、三河国上和田村(愛知県岡崎市上和田町(あいちけんおかざきしかみわだちょう))を拠点として、上和田城を築城したそうです。宇都宮泰藤の孫の宇津泰道(うつやすみち)の時に宇津氏と称し、宇津泰道が松平信光(まつだいらのぶみつ)に仕えたそうです。宇津泰道の子孫の、大久保忠俊(おおくぼただとし)から、大久保氏と称したそうです。
大蔵(おおくら)
阿智神社(あちじんじゃ)です。
於美阿志(おみあし)神社です。住所は奈良県高市郡明日香村檜前594です。
東漢(やまとのあや)氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅(おおくらのひろすみ)を始祖とします。大蔵に仕えたので大蔵氏と称したそうです。承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)で藤原純友(ふじわらのすみとも)の追討に功(こう)のあった大蔵春実(おおくらのはるざね)が大宰大監(だざいのだいげん)となり、その子孫は大蔵党と呼ばれ、原田氏や秋月氏など九州に広がりました。
大原八幡宮(おおはらはちまんぐう)です。住所は大分県日田市田島(大字)(おおいたけんひたしたしまおおあざ)184です。
豊後大蔵氏(日田氏)は大蔵氏の庶家と称したそうです。大原八幡宮は豊後大蔵氏が建立しました。
大河内(おおこうち)
寺津八幡社(てらづはちまんしゃ)です。住所は愛知県西尾市寺津町西市場41です。
清和源氏頼光流大河内氏(長沢松平氏)は、摂津源氏の一族で、源頼政の孫、源顕綱(みなもとのあきつな)(1179年~1230年)が三河国額田郡(ぬかたぐん)大河内郷(愛知県岡崎市大平町大河内(字))に移り住み、大河内氏と称したそうです。吉良家の家老を勤め、子孫に知恵伊豆と称される老中松平信綱(まつだいらのぶつな)がいます。明治時代から大河内姓に戻したそうです。
寺津八幡社は、建久年間(1190年 – 1199年)に大河内氏の初代、源顕綱(みなもとのあきつな)によって創建されたと伝えられ、発祥地ではありませんが、初代によって神社が創建されたという由来や、10代信政(のぶまさ)の時に寺津城を築くなど、長い間寺津を領地とした関係で「大河内氏発祥地」の碑が建てられたそうです。
頼政神社(よりまさじんじゃ)です。住所は茨城県古河市錦町9-5です。
頼政神社縁起によれば、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、源頼政が平氏に敗れて自害した後、従者が頼政の首を笈(おい)に入れて持ち帰ったところ、下総国葛飾郡古河の立崎(龍崎)で笈(おい)が急に岩のように重くなったため、この地に塚をもうけて祀ったそうです。
頼政神社(よりまさじんじゃ)(高崎)です。住所は群馬県高崎市宮元町143です。
こちらの頼政神社は、高崎城主の大河内輝貞(おおこうちてるさだ)が、遠祖の源頼政(みなもとのよりまさ)を祀るために創建したものです。「高崎まつり」で有名です。
大河内八幡神社(おおこうちはちまんじんじゃ)です。住所は愛媛県今治市大西町山之内911-1です。
村上源氏北畠流大河内氏は、伊勢国国司北畠氏の支流です。永禄(えいろく)12年2月大河内氏が伊勢の国から野間郡山之内村に移住し八幡宮を勧請して氏神としました。その後、片上八郎左衛門が、曽祖父大河内馬之丞が山之内村を開拓した功績を讃(たた)えて、八幡宮に合祀して大河内八幡宮と称しました。
太田(おおた)
日吉神社 (高島市安曇川町青柳)の境内神社の太田神社です。住所は滋賀県高島市安曇川町青柳944です。
大伴(おおとも)
住吉大伴神社(すみよしおおともじんじゃ)です。住所は京都府京都市右京区龍安寺住吉町1です。
古代豪族大伴氏は、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫だそうです。
鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)です。
鶴岡八幡宮の社家は大伴氏であり、大伴忠国(おおともただくに)が初代の鶴岡八幡宮神主となり現代まで続いています。
大友(おおとも)
浅草神社(あさくさじんじゃ)です。住所は大分県大分市口戸浅草神社です。
大友氏は、大友能直(おおともよしなお)に始まります。
大友能直(おおともよしなお)は相模国愛甲郡古庄(ふるしょう)郷司であった古庄能成(ふるしょうよしなり)(近藤氏)の子として生まれ、その後、母の生家の波多野経家(はたのつねいえ)の領地の相模国足柄上郡大友郷(神奈川県小田原市大友)を継承してからは大友氏と称しました。
大野(おおの)
豊後大神氏流大野氏は、宇田妃神社です。住所は大分県豊後大野市清川町三玉宇田1493です。
宇佐神宮です。
神婚伝説のある豊後大神氏の祖先とされる大神惟基(おおがみこれもと)の子、大野栄基(おおのよしもと)が豊後国大野郡大野郷(大分県豊後大野市)を本拠として大野氏と称したそうです。
伊予神社(いよじんじゃ)です。住所は愛媛県伊予市上野2485です。
伊予大野氏は大伴氏の子孫と称していたそうです。戦国大名河野氏の筆頭家老になったのですが、戦国時代末、小早川隆景(こばやかわたかかげ)が伊予を攻略すると河野氏と一緒に没落しました。
豊臣氏の側近の大野氏は、大野神社(おおのじんじゃ)です。住所は京都府京丹後市大宮町口大野434 です。
大宮町によると、大宮町は大野一族の出生地だそうです。大野一族は豊臣氏に仕え、豊臣秀頼の側近として仕えた大野治長(おおのはるなが)が有名です。
小笠原(おがさわら)
筑摩神社(つかまじんじゃ)です。住所は長野県松本市筑摩2-6-1です。
松本市の公式観光情報によると、桓武天皇の御代(みよ)に八面大王と呼ばれる鬼のような鬼人が信濃の国安曇郡有明村に住んでおり、近隣の村人達に危害を加えていました。
桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)にこの八面大王を征伐するように命ぜられました。
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)は、京都の岩清水八幡宮に21日間参籠して祈願したところ、信濃国の筑摩の国府の里に八幡宮を祀れば賊の平定が成就するとの霊験を受け、岩清水八幡宮を御分霊し、はるばる信濃の国に奉持し、現在の筑摩の地に八幡宮を祀りました。
これが筑摩八幡宮の始まりだそうです。信濃(長野県)守護の小笠原氏が氏神として崇敬しました。
深志神社(ふかしじんじゃ)です。
社伝によると、宮村宮(宮村大明神)が信濃国府中の井川城に居館した小笠原貞宗公によって建立され、一方、天満宮を小笠原貞基公が勧請(かんじょう)したそうです。
お城と城下町の鎮護の神社として歴代城主により篤(あつ)く敬われました。そして正式な社名を、深志神社と定めたそうです。
小笠原(おがさわら)氏は清和源氏の河内源氏の庶流で、甲斐国巨摩郡(かいのくにこまぐん)(山梨県北杜市)の小笠原牧や山小笠原庄を領していたために名字を小笠原と称したそうです。
岡田(おかだ)
岡田神社です。住所は長野県松本市岡田下岡田1395です。
緒方(おがた)
穴森神社(あなもりじんじゃ)神社です。住所は大分県竹田市神原(大字)穴森神社です。
緒方三社(一の宮、二の宮、三の宮)です。住所は大分県豊後大野市緒方町(久土知、原尻、上自在)です。
緒方氏は大神氏の支流です。緒方惟栄(おがたこれよし)が、豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し、岡城を築城しました。それで緒方と称しました。
岡林(おかばやし)
大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)です。住所は高知県吾川郡仁淀川町大崎(こうちけんあがわぐんによどちょうおおさき)340-1です。
岡林氏は源義家(みなもとのよしいえ)の支流であり、地元の妙見神社・熊野神社の神主の家とも関係があるそうです。武田勝頼(たけだかつより)が大崎八幡宮を建立した時の神主の岡林甲斐守勝貞(おかばやしかいのかみかつさだ)が開祖で、岡林姓を称したそうです。本家は長生教(ちょうせいきょう)という宗教法人を設立し、現在の神主は25代目だそうです。ちなみに、この言い伝えは武田勝頼落人(おちゅうど)伝説です。公式の歴史では、武田勝頼は天目山の戦い(1582年3月11日)で自刃していて、伝説の真偽の程は不明です。
岡部(おかべ)
岡部神社(おかべじんじゃ)です。住所は埼玉県深谷市岡部705です。
小野氏流岡部氏は飛鳥時代の小野妹子の子孫で小野篁(おののたかむら)の末裔の武蔵七党小野姓猪俣党の猪俣忠兼(いのまたただかね)の子である岡部忠綱(おかべただつな)が武蔵国榛沢郡岡部(むさしのくにはんざわぐんおかべ)(埼玉県深谷市岡部)を本貫として岡部氏と称したそうです。その孫の岡部忠澄(おかべただずみ)は源頼朝の家人として義経軍に加わり、平忠度(たいらのただのり)を討ち取って勇名をはせたそうです。神社の近所に岡部六弥太忠澄の墓があります。
岸城神社(きしきじんじゃ)です。
藤原氏流岡部氏は藤原南家工藤氏の支流で、岡部泰綱(おかべやすつな)が駿河国志太郡岡部郷(するがのくにしだぐんおかべごう)(静岡県藤枝市岡部町)の地頭になり岡部と称したそうです。江戸時代に岡部氏の子孫の岡部宣勝(おかべのぶかつ)が岸和田藩の藩主になりました。
岡本(おかもと)
杭全神社(くまたじんじゃ)の境内神社、田村神社です。
岡本氏は坂上氏の、子孫だそうです。
荻原(おぎわら)
山王神社です。住所は山梨県山梨市三富下荻原110です。
旧地名は甲斐国山梨軍荻原といって、甲斐荻原氏の本領だそうです。
織田(おだ)
劔神社(つるぎじんじゃ)です。
織田家の氏神であり、織田家は神社の社家です。
越智(おち)
有南神社(ありなんじんじゃ)です。住所は奈良県高市郡高取町越智(大字)491-2の隣です。
越智氏は、源頼親(みなもとのよりちか)の子孫の大和源氏であり、奈良県高市郡高取町越智(ならけんたかいちぐんたかとりちょうおち)を本貫としたために越智と称したそうです。越智氏の始祖である越智親家(おちちかいえ)を越智家の守護神として祀ってあります。
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)です。住所は愛媛県今治市大三島町宮浦3327です。
社家の越智氏は、5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛中東部に五国造が決められ、地域の支配者が任命されました。その内の一人、物部大新河命(もののべのおおにいかわのみこと)の孫、小市国造小致(おちのくにのみやつこおち)が越智氏の始まりとされ、伊予国越智郷(愛媛県今治市)を領し、瀬戸内海の治安を司って、大山祇神社を鎮祭したそうです。
地方豪族であり、平安時代の藤原純友の乱(936年)には「伊予水軍」として活躍しました。支流は河野氏を名乗り、源氏に従って「河野水軍」と呼ばれ、その後、戦国大名になりました。
小野(おの)
小野神社(おのじんじゃ)です。住所は滋賀県大津市小野(しがけんおおつしおの)1961です。
小野氏は、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を先祖とする古代豪族・小野臣の子孫です。近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市小野)を本拠地として小野と称したそうです。
この神社には、天足彦国押人命と米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)が祭られています。古代豪族小野臣の本拠地で遣隋使(けんずいし)で有名な小野妹子(おののいもこ)の出生地と考えられている神社です。
祭神として祭られている米餅搗大使主は、天足彦国押人命の七世の孫で、お餅の原型という「しとぎ」を最初に考案した人物であり、例祭のシトギ祭の際は、全国の菓子業界から参拝者が訪れるそうです。
小野篁神社(おのたかむらじんじゃ)です。小野神社境内社です。
小野道風神社(おののとうふうじんじゃ)です。小野神社飛び地境内社で、住所は滋賀県大津市小野1213です。
小野妹子神社(おののいもこじんじゃ)です。住所は滋賀県大津市水明(しがけんおおつしすいめい)1丁目29です。江戸時代に小野妹子の墓と言われるようになった唐臼山古墳(からうすやまこふん)が広場として整備されています。
小野神社(おのじんじゃ)です。住所は東京都町田市小野路町(とうきょうとまちだしおのじまち)885です。
この神社は、天禄(てんろく)年間(972年頃)に武蔵国司として赴任した小野孝泰(おのたかやす)、小野篁の七代後の子孫が、この地に氏神として祖先の小野篁を祀ったそうです。小野孝泰は、延長二年(924年)に東京都八王子市元横山町2丁目に八幡神社を建立しました。小野孝泰の長子、横山義孝(よこやまよしたか)がこの地を本拠として横山と称したそうです。この一族を小野氏流横山党と言います。
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