氏神神社(い行)関連リンク。

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旧ブログ記事を更新(初出2019年4月19日)
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このページで紹介している氏神とは、鎮守神社のような地元の神様のことではなく、同じ氏族共通の神様の事です。いわば、あなたの御先祖様に当たる神様です。

飯田(いいだ)

飯田神社(いいだじんじゃ)です。住所は神奈川県横浜市泉区上飯田町2517です。
桓武平氏秩父氏流飯田氏は、渋谷重国の5男の飯田家義(いいだいえよし)が鎌倉郡飯田郷(神奈川県横浜市泉区飯田町)の地頭に任じられた事から飯田氏と称したそうです。
六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)です。
清和源氏満快(みつよし)流飯田氏は毛利家の譜代の家臣です。

五十嵐(いがらし)

五十嵐神社(いがらしじんじゃ)です。住所は新潟県三条市飯田-1233の辺りです。
五十嵐氏は、垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)の末裔の一つで、五十嵐神社(式内社・越後国蒲原郡「伊加良志神社」)は五十日足彦命の埋葬地だそうです。現在の神社は高台に移転した物で、江戸時代まで、そばにある史跡の五十嵐館跡にあったそうです。五十嵐氏は鎌倉幕府の御家人として歴史に登場し、約四百年間この地を支配しました。地元では源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えた豪勇な竜神の子・五十嵐小文治吉辰(いがらしこぶんじよしたつ)が開祖と伝わっているそうです。

猪狩(いかり)

楢葉八幡神社(ならははちまんじんじゃ)です。
住所は福島県双葉郡広野町上北迫石名坂(ふくしまけんふたばぐんひろのまちかみきたばいしなかざか)57です。
猪狩氏の開祖は、小野朝臣の支流で、出羽郡司小領小野良時(おのよしとき)だそうです。良時の子孫の猪狩良永(いかりよしなが)は、もとは高倉小次郎と名乗る下野の人で、後三年の役(1083年)の折、源義家(みなもとのよしいえ)に従い、出陣したそうです。美濃国青野ヶ原にさしかかった時、軍勢に驚いた大猪(おおいのしし)が源義家の前に飛び出してきたのを、一撃のもとに倒したのでその力量を賞賛され、猪狩の姓と家紋を授かったそうです。楢葉八幡神社は源頼義(みなもとののりよし)が石清水八幡宮の分霊を祀り創建した神社です。岩城氏の家来で、近くにある高倉城主の猪狩氏が崇敬したそうです。

八雲神社(やくもじんじゃ)です。
住所は山梨県甲府市猪狩町(やまなしけんこうふしいかりちょう)、昇仙峡ロープウェイのパノラマ台駅徒歩1分です。
氏姓は不明で、ここを根拠地にする猪狩氏があるそうです。

伊木(いぎ)

熊野神社 (くまのじんじゃ)です。住所は岐阜県各務原市鵜沼大伊木町(ぎふけんかかみがはらしうぬまおおいぎちょう)6丁目415の先、伊木山1494です。
由緒によると、創立は不明ですが、大伊木村の氏神です。伊木氏は、本姓は橘氏で、尾張国に居住し、香川氏を称していたそうですが、初代の伊木忠次(いぎただつぐ)は織田信長の家来になりました。織田信長の美濃攻めの際の武功によって、織田信長から、「伊木」の苗字(みょうじ)を賜り、大伊木村に屋敷を構え、伊木山城を築き城主になったそうです。

井口(いぐち)

井口神明宮(いのくちしんめいぐう)です。住所は富山県南砺市蛇喰(とやまけんなんとしじゃばみ)1236です。
井口氏は、藤原利仁の支流で、越中国砺波郡井口村(富山県南砺市井口)を領して井口城を築いて、井口と称したそうです。
日吉神社です。住所は滋賀県長浜市高月町井口(しがけんながはましたかつきちょういのくち)122です。
井口氏は、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)領の荘園(しょうえん)・富永荘の荘官(しょうかん)を務めた豪族であり、近所を流れる高時川の水利を管理する井頭(いのかしら)に任命されて、地名を井口と呼び、井口と称したそうです。

池田(いけだ)

岡山神社(おかやまじんじゃ)です。
池田家が岡山城主の時に城内鎮守として特別に崇敬しました。武安霊命 「タケヤスビノミコト」(池田光政公)が祀られています。
閑谷神社(しずたにじんじゃ)です。
池田光政公を祀っています。
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)です。
江戸時代に姫路藩主で岡山城主の池田家が崇敬し、本殿・拝殿を造営しました。
池田氏は、尾張国を出自とする一族が一番有名です。織田信秀(おだのぶひで)に仕えた池田恒利(いけだつねとし)は実在が確実であり、池田恒利が池田氏の開祖と言えます。池田氏は織田信長に仕えて戦国大名として発展しました。

石井(いしい)

岩の多い地域を石井と言ったので日本各地に多く、氏姓の異なる一族が名字にしているため、総氏神のような神社は、無いようです。
その中でも、佐賀藩主・鍋島家外戚(がいせき)の石井氏が有名です。この系統は藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)で下総国猿島郡石井郷(茨城坂東市岩井(いばらきけんばんどうしいわい))を本貫として石井氏と称したそうです。ただし、産土神の國王神社(こくおうじんじゃ)は平将門に関係する神社で、氏神ではありません。全国に石井神社という名称の神社は数社あるようですが、ほとんどが水神や井戸の神様を祭神としており、古社が多く、石井氏とは関係ないようです。自分でルーツを探して、清和源氏、宇多源氏、藤原氏、桓武平氏、菅原氏、中原氏などの氏神の中から見つける必要があります。

石川(いしかわ)

加佐美神社(かさみじんじゃ)です。住所は岐阜県各務原市蘇原古市場町5丁目1です。
一須賀神社(いちすかじんじゃ)です。住所は大阪府南河内郡河南町一須賀(おおさかふみなみかわちぐんかなんちょういちすか)627です。
現在の祭神は江戸時代に変更されたようで、元は宗祖・蘇我石川宿禰を祀ったものだそうです。
蘇我氏流石川氏はこちらの神社です。蘇我一族は大化の改新で滅ぼされましたが、生き残りは石川氏に改姓したそうです。
壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)です。
石川源氏系の石川氏は、河内源氏・源義時(みなもとのよしとき)を始祖とします。河内源氏の本拠地である河内国石川を本拠にしたので石川氏と称したそうです。子孫が三河国に広がって、徳川幕府の譜代大名・旗本として繁栄しました。
石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)です。
陸奥石川氏系の石川氏は源有光(みなもとのありみつ)を始祖とします。永承(えいしょう)6年(1051年)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、石川の地を授かって、石川氏と称したそうです。

石黒(いしぐろ)

荊波神社(うばらじんじゃ)です。住所は富山県南砺市岩木(とやまけんなんとしいわき)5024です。
石黒氏は、武内宿禰の後裔(こうえい)の古代豪族・砺波臣(となみおみ)の子孫で、越中国石黒荘(富山県南砺市福光)を領して、福光城を築城し、石黒と称したそうです。荊波神社の裏には砺波臣志留志(となみのおみしるし)の古墳若しくは経塚があるそうです。荊波神社は石黒郷二十七ヶ村の惣社として崇敬されていたようです。

石毛(いしげ)

八幡神社(はちまんじんじゃ)です。
住所は茨城県常総市本石下(いばらきけんじょうそうしもといしげ)2073です。
常陸国豊田郡石毛郷(茨城県常総市本石下)を領して、石毛城を築城し、宗家の千葉氏より「石毛」の苗字(みょうじ)を賜ったそうです。この神社は石毛氏の居城・石毛城の跡にあります。
猿田神社(さるだじんじゃ)です。
住所は 千葉県銚子市猿田町(ちばけんちょうししさるだちょう)1677です。
大中臣氏流の石毛氏は、香取郡猿田神社の神官を務めていたそうです。

石田(いしだ)

八幡神社(はちまんじんじゃ)です。
住所は滋賀県長浜市石田町(しがけんながはましいしだちょう)423(546-3の隣)です。
石田氏は、氏姓は不明ですが、近江国坂田郡北郷村石田(滋賀県長浜市石田町)の土豪です。一族の石田三成は豊臣秀吉の家臣であり、関ヶ原の戦いで有名です。この神社の中に石田氏の氏神の石田神社があります。近所に石田会館(滋賀県長浜市石田町575)という施設があります。石田三成公屋敷跡だそうで、八幡神社の周辺一帯には石田三成公ゆかりの名所がたくさんあります。

石橋(いしばし)

塩松神社(しおまつじんじゃ)です。
住所は福島県二本松市小浜反町(ふくしまけんにほんまつしおばまそりまち)20です。
石橋氏は、清和源氏足利氏流で、陸奥国安達郡(福島県二本松市小浜)の塩松地方を領して、四本松城(しおのまつじょう)の城主となりました。

石原(いしはら)

国立神社(くにたてじんじゃ)です。住所は山梨県笛吹市一宮町塩田466です。
石原さんの祖先で最初の甲斐国造だった塩海足尼(しおみのすくね)が祭神です。
三枝氏子孫の石原氏は、三枝氏の神社が氏神です。

石森(いしもり)

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)です。住所は福島県いわき市平菅波宮前(ふくしまけんいわきしたいらすぎなみみやまえ)54です。
石森氏は、岩城氏の支流です。岩城郡石森を本拠として石森と称したそうです。

石渡(いしわた、いしわたり)

神明社 (しんめいしゃ)です。住所は神奈川県逗子市池子(かながわけんずししいけご)2丁目10-11です。
この神社は建久(けんきゅう)三年(1192年)源頼朝(みなもとのよりとも)の勧請で創建され、その後、水戸徳川家ゆかりの英勝寺(えいしょうじ)の寺領となって水戸徳川家の庇護(ひご)を受けたそうです。石渡家は、代々池子の庄屋(しょうや)だったそうです。
春日神社 (かすがじんじゃ)です。住所は神奈川県横須賀市三春町(かながわけんよこすかしみはるまち)3丁目33です。
この神社のある公郷(くごう)(神奈川県横須賀市公郷町(かながわけんよこすかしくごうちょう))は、藤原氏の荘園(しょうえん)であった為、奈良の春日大社から勧請したそうです。元は猿島(さるしま)に鎮座し、公郷一円の鎮守神社でした。神域猿島が、軍用地として接収されたため、やむなく現在地に遷座したそうです。氏子総代の石渡氏の子孫が神社を守ってきたそうです。
石渡氏は、清原氏の支流で相模国三浦郡(神奈川県三浦市)を本拠としていたそうです。

泉(いずみ)

飯笠山神社(いいがさやまじんじゃ)です。住所は長野県飯山市飯山(ながのけんいいやましいいやま)3510です。
この神社は、応永(おうえい)年間に泉氏の先祖が飯笠山に源氏の氏神である八幡神を勧請し、天正(てんしょう)年間の時に飯山城改築の際に現在地に遷座されたそうです。以後、飯山藩の鎮守として崇敬されたそうです。戦国時代には上杉謙信の家臣で泉氏の子孫である飯山城代岩井信能(いわいのぶよし)が寄進をしていた記録があるそうです。
泉氏は、清和源氏満快(みつよし)流で伊那(いな)氏の一族とされる泉公衡(いずみきみひら)を開祖とし、信濃国小県郡小泉荘(長野県上田市小泉(ながのけんうえだしこいずみ))を本拠としたことから泉氏と称したそうです。

出雲(いずも)

出雲大社(いずもたいしゃ)です。
出雲氏は、天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫と伝えられる古代豪族の末裔です。本家は出雲大社の宮司である千家家です。
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)です。
出雲神社(いずもじんじゃ)です。住所は京都府亀岡市本梅町井手西山(きょうとふかめおかしほんめいちょういでにしやま)6です。
出雲大神宮は丹波国一宮と言われ、この一帯は出雲国から山城国(やましろのくに)へ出雲氏が移り住む以前に本拠としていた地域かも知れません。
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)摂社・出雲井於神社(いずもいのへじんじゃ)です。住所は京都府京都市左京区下鴨泉川町(きょうとふきょうとしさきょうくしもがもいずみがわちょう)59です。
崇道神社(すどうじんじゃ)摂社・出雲高野神社(いずもたかのじんじゃ)です。住所は京都府京都市左京区上高野西明寺山(きょうとふきょうとしさきょうくかみたかのさいみょうじやま)34です。
これらの神社は京都の出雲氏の氏神です。延喜式神名帳にも記載されているそうです。出雲国(島根県)から京都に移り住んだ出雲氏支流は、山城国愛宕(おたぎ)郡出雲郷(京都府京都市北区出雲路(きょうとふきょうとしきたくいずもじ)辺り)に本拠地を築きました。平安京遷都以前のことであり、氏族名から出雲郷の地名が生まれました。昔は、出雲氏の氏寺の上出雲寺・下出雲寺があったそうです。上御霊神社は元々は、上出雲寺の鎮守神社だったそうです。やがて、これらの地域は、賀茂氏や小野氏の本拠地となって、出雲氏は更に東国に移住していったようです。大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体山・三輪山の東側に位置する奈良県桜井市出雲(ならけんさくらいしいずも)や、大宮氷川神社のある埼玉県から東京都にかけての一帯に出雲氏は移住したようです。

板垣(いたがき)

柴宮神社(しばみやじんじゃ)です。住所は山梨県甲府市善光寺(やまなしけんこうふしぜんこうじ)2丁目8-20です。
板垣氏は、武田氏の支流で武田信義(たけだのぶよし)の三男の板垣兼信(いたがきかねのぶ)が、甲斐国山梨郡板垣郷(山梨県甲府市里垣)を領して、板垣氏と称したそうです。この神社は、元は板垣村正一位柴宮大明神と称して、板垣村の産土神社でした。

板野(いたの)

岡上神社(おかのかみじんじゃ)です。住所は徳島県板野郡板野町大寺岡山路(とくしまけんいたのぐんいたのちょうおおてらおかやまじ)7です。
板野氏は、藤原氏の支流で阿波国板野郷(徳島県板野郡)を本拠として板野と称したそうです。

市川・市河(いちかわ)

表門神社(うわとじんじゃ)です。住所は山梨県西八代郡市川三郷町上野(やまなしけんにしやつしろぐんいちかわみさとちょううえの)2767です。
市川氏の総本家は、表門神社の社家です。表門神社の社伝によると、孝霊天皇(こうれいてんのう)二年に創建され、永保(えいほう)元年(1081年)、白河天皇が御病悩の時に、表門神社・神主が召されて祈祷したところ白河天皇の御病悩が平癒したために、神主は甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川)を神社の領地として賜り、以後、市川と称したそうです。同時に、弘法大師・空海筆の文殊画像も下賜されたので、表門神社は別名、市川文殊とも称したそうです。

井手(いで)

玉津岡神社(たまつおかじんじゃ)です。住所は京都府綴喜郡井手町井手東垣内(きょうとふつづきぐんいでちょういでひがしがいと)63です。
この神社は橘氏の氏神です。境内には橘諸兄(たちばなのもろえ)を祀った橘神社があります。
井手神社(いでじんじゃ)です。住所は愛媛県松山市北立花町(えひめけんまつやましきたたちばなまち)2-4です。
この神社は橘清友(たちばなのきよとも)が伊予国司となった際に、橘諸兄の神霊を勧請して井手大明神と称したそうです。
井手氏は、姓は橘氏で山城国綴喜郡井手(京都府綴喜郡井手町)を本貫としたことから井手と称したそうです。

井出(いで)

熊野神社(くまのじんじゃ)です。住所は静岡県富士宮市上井出(しずおかけんふじのみやしかみいで)278です。
井出氏は、江梨鈴木氏(えなしすずきし)の支流とも、藤原南家・二階堂支流とも言われ、駿河国富士郡井出郷(静岡県富士宮市上井出)に来住して井出氏と称したそうです。最初は今川家家臣でしたが、井出正次(いでまさつぐ)の時に徳川家康の家臣になりました。井出正次は徳川家康に重用され、駿河・伊豆の代官、駿府の町奉行を務めました。静岡県富士宮市狩宿(しずおかけんふじのみやしかりやど)91-1に富士宮市指定文化財「井出家高麗門及び長屋」が残されています。

伊東(いとう)

葛見神社(くずみじんじゃ)です。住所は静岡県伊東市馬場町1丁目16-40です。
伊東氏(いとうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族です。
藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族です。
一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで備中岡田藩主となったそうです。
田野天建神社(たのてんけんじんじゃ)は、日向国の伊東氏の氏神です。住所は宮崎県宮崎市田野町甲2793です。
王宮伊豆神社 (おうのみやいずじんじゃ)です。住所は福島県郡山市片平町字王宮17番地です。
元々は、葛城親王を祀った神社でした。葛城親王は、和銅4年阿尺国按察使兼班田使(あさかのくにあぜちけんはんでんし)に任ぜられ、陸奥国安積郡(むつこくあさかのこおり)(福島県郡山市)を開拓し、今の郡山の基礎を築かれたそうです。
その後、鎌倉時代にこの地方を領した伊東氏が、故郷の伊豆・箱根・三島の三社を合祀し氏神としたそうです。本殿背後にある祠は、葛城親王の墓と伝えられているそうです。

伊藤(いとう)

藤原氏の氏神、春日大社です。
由来は「伊勢の藤原氏」です。
藤原秀郷の子孫の基景(もとかげ)が、伊藤基景(いとうもとかげ)と名乗ったのが始まりです。
清洲山王宮 日吉神社です。
この神社は松坂屋を経営する伊藤家の氏神です。
松坂屋は、織田信長の小姓で伊藤蘭丸祐道(いとうらんまるすけみち)が清洲から名古屋に移って、太物商(綿や麻などの布を売る店)を開業したのが始まりです。二代目以降は代々伊藤次郎左衞門を名乗るそうです。

稲垣(いながき)

市原稲荷神社(いちはらいなりじんじゃ)です。
賀多神社(かたじんじゃ)です。住所は三重県鳥羽市鳥羽(みえけんとばしとば)2丁目9-1です。
歳苗神社(としなえじんじゃ)です。住所は滋賀県東近江市山上町(しがけんひがしおうみしやまかみちょう)418-1です。
稲垣氏は、清和源氏小田氏流と言われ、文明年間(ぶんめい・ねんかん)1469年-1486年に伊勢国から三河国宝飯郡(みかわのくにほいぐん)に移住し土豪となったそうです。市原稲荷神社の案内によると、「稲垣重昭(いながきしげあき)は承応(じょうおう)三年(1654年)四月に重い病気に臥(ふ)した際、医薬を始めあらゆる手当にもかかわらず病状が一向に回復しませんでした。最後に神主が祈祷して、城内にまつられていた稲荷に対し、思わぬうちに不敬の行為があった神罰のためと悟り、重臣に命じて神社の拡張工事を進め、稲荷祠を神社に合わせ祀ったといいます。」だそうです。稲垣氏は刈谷城(かりやじょう)から鳥羽城(とばじょう)に配置換えになりました。賀多神社は歴代の鳥羽城主に崇敬されたそうです。元、大身旗本の稲垣重定(いながきしげさだ)が出世して近江国山上藩(おうみのくにやまかみはん)の初代藩主になりました。山上村歳苗神社は歴代の藩主に崇敬されたそうです。

乾(いぬい)

八幡神社(はちまんじんじゃ)です。住所は岐阜県土岐市妻木町(ぎふけんときしつまぎちょう)3051-1です。
美濃源氏・土岐氏系の乾氏はこの神社になります。
柴宮神社(しばみやじんじゃ)です。住所は山梨県甲府市善光寺(やまなしけんこうふしぜんこうじ)2丁目8-20です。
甲斐(かい)武田支流・板垣氏系の乾氏はこの神社になります。
沙沙貴神社(ささきじんじゃ)です。住所は滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1です。
宇田源氏・佐々木氏系の乾氏はこの神社になります。
下船岡神社(しもふなおかじんじゃ)です。住所は鳥取県八頭郡八頭町船岡(とっとりけんやずぐんやずちょうふなおか)605です。
宇田源氏・佐々木氏流で鳥取藩家老職の乾氏はこの神社になります。

犬養・犬飼(いぬかい)

駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ)です。住所は奈良県御所市(ごせし)楢原1662です。
御所市(ごせし)によると、大重神社の祭神は葛城雅犬養連網田だそうです。
大重神社は延喜式(10世紀初頭に完成)に登場する神社だそうですが、それよりも200年ほど古い文献の大和史料で「葛木犬養神」と記されているそうです。
犬養を大重と写し間違えられたものと思われるそうです。

井上(いのうえ)

小坂神社(おさかじんじゃ)です。住所は長野県須坂市井上小坂2578です。
清和源氏井上流の租・源賴季(みなもとのよりすえ)が信濃の井上に領地を得たので、八幡神社を勧請(かんじょう)したそうです。

今井(いまい)

今井神社(いまいじんじゃ)です。住所は長野県松本市今井(ながのけんまつもとしいまい)1077です。
中原氏流の今井氏は、この神社です。績麻(つうそ)神社が今井神社に合祀(ごうし)されているそうです。績麻神社は上今井村の産土神だったそうです。今井神社は別名・兼平神社とも呼ばれ、今井兼平を祭神としています。今井神社は今井兼平の館跡(やかたあと)と伝わっているそうです。木曽義仲の家来で四天王と呼ばれた中原氏流の中原兼平が今井を領して今井兼平と称したそうです。
今井金鑚神社(いまいかなさなじんじゃ)です。住所は埼玉県本庄市今井(さいたまけんほんじょうしいまい)1124-1です。
武蔵児玉党の今井氏は、この神社です。児玉党本家の庄家弘(しょういえひろ)の四男、庄四郎高家(しょうしろうたかいえ)が、児玉郡の今井郷蛭川荘(埼玉県本庄市児玉町蛭川)に移住して蛭川氏(ひるかわし)と称したそうです。庄高家の子孫、今井行助が児玉郡今井(埼玉県本庄市今井)に居館を設け、今井と称したそうです。今井行助が居館を築いたとき、守護神として今井金讃神社を勧請したそうです。
八幡神社(はちまんじんじゃ)です。住所は滋賀県米原市箕浦(しがけんまいばらしみのうら)139です。
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)流・今井氏は、この神社です。今井氏は近江国の箕浦城(みのうらじょう)を拠点にした国人領主でした。代々、近江守護職・京極家に重臣として仕えていたそうです。

今村(いまむら)

大木八幡神社(おおきはちまんじんじゃ)です。
住所は福岡県みやま市瀬高町大廣園(ふくおかけんみやましせたかまちおおひろぞの)1328-1の道路の反対側です。
今村氏は、筑後宇都宮氏族で蒲池(かまち)氏の庶流です。蒲池義久(かまちよしひさ)の次男、今村大隅(いまむらおおすみ)が宮園城(みやぞのじょう)を築き、今村氏と称したそうです。宮園城は現在の東照寺(とうしょうじ)の辺りにあったそうです。宮園城は戦(いくさ)の時に籠城するための城であり、ふだんは、今村氏は高木城近くの広安館(ひろやすやかた)に居を構えていました。ここには、「広安の湯」と言う鉱泉があって、戦傷の治療に用いられたそうです。今村氏の子孫は現在も広安館跡に住んでいるそうです。

岩城(いわき)

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)です。住所は福島県いわき市平菅波宮前(ふくしまけんいわきしたいらすぎなみみやまえ)54です。
岩城氏は、桓武平氏・平繁盛(たいらのしげもり)流とも言われていますが、成務天皇(せいむてんのう)の時代に建許呂命(たけころのみこと)が石城国造(いわきのくにのみやつこ)に任命され、その子孫が岩城氏だそうです。この神社は、岩城氏に氏神として崇敬された神社です。近くにある大國魂神社飛び地の甲塚(かぶとづか)は、建許呂命の古墳であると言う伝承があるそうです。
飯野八幡宮(いいのはちまんぐう)です。
この神社は福島県の浜通り南部の中心に位置する大社で、浜通り南部を本拠地とした時期の岩城氏が崇敬したそうです。

岩切(いわきり)

霧島神社です。住所は宮崎県日南市南郷町中村乙(みやざきけんにちなんしなんごうちょうなかむらおつ)4739です。
岩切氏は,日下部氏の流れで、日向国諸県郡国富荘本郷岩切(宮崎県宮崎市郡司分岩切(みやざきけんみやざきしぐじぶんいわきり))へ移住をし、その地を本拠として、岩切と称したそうです。地図では宮崎県立看護大学の南側一帯が岩切氏の本拠地ですが、この地には、岩切氏に縁のある神社は見つからないようです。この霧島神社は、初代以下、岩切家が代々宮司を引き継いでいるそうです。

岩崎(いわさき)

永川神社(えいかわじんじゃ)です。住所は山梨県甲州市勝沼町上岩崎(やまなしけんこうしゅうしかつぬまちょうかみいわさき)2628です。
甲斐(かい)源氏流岩崎氏は、清和源氏・武田信義(たけだのぶよし)の孫、岩崎信隆(いわさきのぶたか)が甲斐国山梨郡岩崎邑(山梨県甲州市勝沼町上岩崎・下岩崎)を本貫地として、岩崎と称したそうです。
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)です。住所は福島県いわき市平菅波宮前(ふくしまけんいわきしたいらすぎなみみやまえ)54です。
岩城氏流岩崎氏は、岩城氏の支流で、岩崎忠隆(いわさきただたか)が岩崎郷を本貫地として岩崎と称したそうです。
土佐稲荷神社です。
元々、土佐藩の守護神社だったのですが、三菱グループの創業者・岩崎弥太郎氏が神社を取得し、現在は三菱グループの守護神社です。

岩田(いわた)

白鳥神社(しらとりじんじゃ)です。住所は埼玉県秩父郡長瀞町岩田(さいたまけんちちぶぐんながとろまちいわた)30-10の道路の先です。
岩田氏は,武蔵七党の丹党の流れで、岩田政光(いわたまさみつ)、岩田七郎政弘(いわたしちろうまさひろ)兄弟が埼玉県秩父郡長瀞町岩田を本拠として、岩田と称したそうです。 元慶(がんぎょう)年間(877-885年)に岩田武信が菅原道真公、日本武尊、埴山姫命を勧進し、白鳥天神宮と称して祭ったのが白鳥神社だそうです。

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以上

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