氏神神社(あ行)関連リンク。
旧ブログ記事を更新(初出2019年4月19日)
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このページで紹介している氏神とは、鎮守神社のような地元の神様のことではなく、同じ氏族共通の神様の事です。いわば、あなたの御先祖様に当たる神様です。
愛甲(あいこう)
小野神社(おのじんじゃ)です。住所は神奈川県厚木市小野428です。
この神社は創建時期は不明ですが、鎌倉時代には愛甲氏の氏神として崇敬されました。愛甲季隆(あいこうすえたか)が願主の一人として、建久(けんきゅう)五年(1194年)に神社を再興したそうです。
愛甲氏は、武蔵七党・横山党の横山隆兼(よこやまたかかね)が天永(てんえい)四年(1113年)に相模国愛甲郡愛甲荘(神奈川県厚木市愛甲)の愛甲内記太郎を殺害し、愛甲荘に進出します。この事件により朝廷より追討を受けるも抵抗し、源為義(みなもとのためよし)の庇護(ひご)によって存続します。その子孫が本拠地によって愛甲と称したそうです。
相葉(あいば)
子守神社(こまもりじんじゃ)です。住所は千葉県千葉市花見川区幕張町2-990です。
元は、素加天王神社(すかてんのうじんじゃ)といいました。
下総国千葉郡大須賀荘須賀原(しもうさのくにちばぐんおおすかのしょうすがはら)は、後に、馬加本郷(まくわりほんごう)と呼ばれるようになりました。千葉氏の庶流である馬加康胤(まくわりやすたね)は、この地に馬加城(まくわりじょう)を築いて領有し、馬加氏(まくわりし)と称しました。馬加康胤は古河公方(ふるかわくぼう)に味方して千葉宗家を滅ぼし、自ら千葉介を称して17代宗主となったのですが、室町将軍足利義政(あしかがよしまさ)が千葉支流の東常緑(とうのつねより)に、馬加康胤追討の命を下し馬加(幕張)城を攻め滅ぼさせました。
生き残った馬加氏の家臣は、郷士か農民となりました。馬加旧臣(まくわりきゅうしん)の小川外記という人が囲碁で口論となった同じ馬加旧臣の相葉蔵之助を槍(やり)で突き、相葉一門の報復を恐れていったん千葉県習志野市実籾(みもみ)へ逃げたという話があるそうです。この話は、幕張(千葉県千葉市花見川区)一帯が相葉氏の土地だった事を表していると思われます。
相原(あいはら)
八幡八雲神社(はちまんやぐもじんじゃ)です。
武藏七党横山氏の氏神です。相原氏は武藏七党横山党の一族です。
相模国高座郡粟飯原郷(神奈川県相模原市緑区相原)を領したのが始まりだそうです。
青木(あおき)
金鑚神社(かなさなじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750です。
武蔵七党の一つ丹党の末裔の一族が、武蔵国入間郡青木の地を領して本貫とし青木姓を称したそうです。
阿保神社(あぼじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町元阿保(さいたまけんこだまぐんかみかわまちもとあぼ)1です。
安保氏支流の青木氏はこの神社です。
青山(あおやま)
青山神社です。住所は兵庫県篠山市北新町2-3篠山城址(ささやまじょうし)です。
青山氏は姓は藤原氏で北家花山院堀川師賢の子孫が上野国吾妻郡青山郷(群馬県吾妻郡中之条町青山)に住んだ事から青山を名乗ったのが始まりだそうです。
江戸時代の譜代大名で、篠山藩の藩主でした。金王八幡宮にも縁があるそうです。
赤井(あかい)
兵主神社(ひょうずじんじゃ)です。住所は兵庫県丹波市春日町黒井(ひょうごけんたんばしかすがちょうくろい)2956です。
丹波赤井氏は、清和源氏・源頼季(みなもとのよりすえ)流の井上家光(源頼季の子、源満実(みのもとのみつざね)の三男)が、保元(ほうげん)三年(1158年)に故あって、丹波芦田庄(兵庫県丹波市青垣町東芦田(ひょうごけんたんばしあおがきちょうひがしあしだ))へ配流(はいる)されたことに始まる芦田氏の支流だそうです。戦国時代には、氷上郡を支配し、赤井直正(あかいなおまさ)が黒井城(くろいじょう)を拠点に戦国大名化しました。織田信長の命による明智光秀の丹波攻略に赤井氏は良く耐えたのですが、赤井直正が病死したため、黒井城は落城し、赤井氏は滅亡しました。しかし、子孫は徳川旗本や藤堂家の藩士になって続いたそうです。この神社は赤井直正が崇敬し、赤井一族の武運を祈っていた神社だそうです。
長良神社(ながらじんじゃ)です。住所は群馬県館林市代官町(ぐんまけんたてばやししだいかんちょう)11-38です。
この神社は創建年代は不明ですが、舘林総鎮守であり、佐貫荘を開いた佐貫氏が鎮守として祀り、舘林城を築城した赤井氏が現在地に勧請したそうです。
尾曳稲荷神社(おびきいなりじんじゃ)です。住所は群馬県館林市尾曳町(ぐんまけんたてばやしおびきちょう)10-1です。
この神社は舘林城の守護神で「狐(きつね)の尾曳伝説」と言うのがあるそうです。
上野赤井氏は、佐貫氏の支流、又は、家来が上野国邑楽郡佐貫荘(群馬県館林市)を領して館林城を築城し、赤井氏と称したそうです。上杉謙信に舘林城を攻撃されて落城し、赤井氏は滅亡しました。
神楽岡神社(かぐらおかじんじゃ)です。住所は富山県射水市赤井(とやまけんいみずしあかい)555です。
富山赤井氏は、神楽岡神社の宮司・杉岡氏が武士化して赤井城を築いて、赤井氏と称したそうです。赤井城は神保氏の日宮城の出城として築かれたのですが、上杉謙信が神保氏を攻略し、日宮城が落城すると、赤井氏は宮司に戻ったそうです。
赤木(あかぎ)
信濃赤木氏は、赤木上の宮です。住所は長野県松本市寿小赤2004です。
真言宗智山派の寺院の赤木山・弘長寺(こうちょうじ)にあります。弘長寺(こうちょうじ)は信濃「あじさい寺」として有名です。
日向赤木氏は、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)です。住所は宮崎県小林市細野4937です。
日向の赤木氏は河野氏の支流で、真幸院三之山(のち、小林郷東方村赤木門)を知行したので赤木氏と称したそうです。
赤沢(あかざわ)
御射神社春宮(みさじんじゃはるみや)です。住所は長野県松本市浅間温泉(大字)854です。
元々は浅間社と呼ばれて浅間郷の氏神でした。建武(けんむ)二年頃浅間郷の地頭になっていた赤沢氏が諏訪より御射神社(みさじんじゃ)を勧請(かんじょう)し、御射神社春宮(みさじんじゃはるみや)と呼ばれるようになりました。
長野県松本市三才山(みさやま)に奥宮としての御射神社秋宮(みさじんじゃあきみや)もあります。
赤沢氏は、清和源氏小笠原長経の二男清経が、伊豆国赤沢郷(静岡県伊東市赤沢)を領して赤沢氏を称したことに始まります。
清経は伊豆守に任ぜられ、以後、赤沢氏の当主は伊豆守を称するものが多いそうです。すぐに信濃(長野県)に移住しました。
赤羽(あかばね)
筑摩神社(つかまじんじゃ)です。住所は長野県松本市筑摩2-6-1です。
赤羽氏は小笠原氏の支流で、信濃国伊那郡赤羽(長野県上伊那郡辰野町赤羽)によって、赤羽氏と称したそうです。
東京都北区赤羽の赤羽八幡神社ではありません。赤羽氏には関係ないのですが、ここは、有る意味すごい神社です。社伝によると、江戸時代は4000坪の広さがある神社だったのが、鉄道敷設、貨物駅設置、軍隊に土地を供出、新幹線と埼京線の敷設のために里山にトンネルが貫通、今もまた、道路建設のため、参道と階段がなくなりそうなのだそうです。一方で、鉄道各線の車両が間近に見えると言う事で鉄道マニアの聖地であり、この神社の「下元8運」お守りが関ジャニ8のマークと同じ無限大マークなので、関ジャニ8のファン(通称eighter)に人気になるなど、少し不思議な神社のようです。
赤間(あかま)
亀山八幡宮です。
赤間氏は藤原姓で、長門国豊浦郡赤間(山口県下関市赤間町)に由来します。赤間の関(下関)の関守でした。
赤嶺(あかみね)
赤嶺御嶽(あかみねうたき)です。住所は沖縄県那覇市赤嶺1丁目赤嶺緑地内です。
御嶽(うたき)は聖なる森林であり、御嶽の中心には神の依り代が置かれ、その前に香炉が置かれて、祈願が行われる聖地です。男子禁制で 「のろ」と呼ばれる女性の霊能力者以外は、御嶽に近づくことは禁止されています。また、御嶽内の石を勝手に持ち出したり、木を切って持ち出したり、枯れ木を拾ってくる事も禁止されています。
秋山(あきやま)
八幡神社です。住所は南アルプス市湯沢2180です。
甲斐(かい)源氏武田氏の支流で加賀美遠光の嫡男光朝を祖とし、巨摩郡秋山(山梨県南アルプス市秋山)を本貫として秋山氏と称したそうです。
熊野神社です。住所は山梨県南アルプス市秋山603です。
秋山太郎光朝公廟(びょう)があります。
浅野(あさの)
饒津神社(にぎつじんじゃ)です。
豊臣秀吉の正室、おねさんの実家で広島藩42万6千石の大名家が造営したそうです。
広島に落とされた原爆で被災したそうです。
阿佐美・浅見(あさみ)
金鑚神社(かなさなじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750です。
阿佐美氏(あさみし)は、児玉党本宗家4代目庄家弘の五男(末子)である庄五郎弘方が、武蔵国児玉郡入浅見郷(埼玉県本庄市児玉町入浅見)に移住した事から始まり、庄氏の支流です。
氏神では無いと思われますが、入浅見地区には金鑚神社古墳(かなさなじんじゃこふん)、住所は本庄市児玉町入浅見899もあります。
足利(あしかが)
八雲神社上宮です。住所は栃木県足利市緑町(みどりちょう)1-3281です。
八雲神社下宮です。住所は栃木県足利市通(とおり)5-2816です。
八雲神社上宮は、境内の案内板によると藤原村雄(藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の父)が、貞観(じょうがん)年間(859-877年)に建立したと伝えられています。「栃木県神社誌」によると、清和天皇の貞観11年(869年)、右大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)が、緑町に上社、5丁目に下社を勅願所として建立したといわれています。平将門の乱の平定祈願成就により、足利、梁田両郡の総鎮守となり、牛頭天王(ごずてんのう)と呼ばれ広く崇敬を集め、朝廷や国府からの参拝も行われたと伝えられます。
八雲神社下宮は、社伝によると、貞観年間(859-877年)に藤原村雄が津島神社を勧請したのが始まりだそうです。
藤姓足利氏の子孫は、この二神社です。
下野國一社八幡宮(しもつけのくにいっしゃはちまんぐう)です。住所は栃木県足利市八幡町387です。
源姓足利氏の子孫は、この神社です。
足利氏は、下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠とする一族です。最初、足利荘は藤原秀郷子孫の藤姓足利氏の領地でしたが、源頼朝(みなもとのよりとも)に滅ぼされました。一門の内、佐野氏は源頼朝に従い、鎌倉御家人となり、戦国大名になり、江戸時代には徳川家の旗本になりました。そののち、清和源氏の支流である河内源氏の棟梁(とうりょう)、源義家(みなもとのよしいえ)の四男、源義国(みなもとのよしくに)が足利荘を領して本貫とし、その次男、足利義康(あしかがよしやす)が足利氏と称したそうです。
芦田(あしだ)
赤井氏系の芦田氏は、兵主神社(ひょうずじんじゃ)です。住所は兵庫県丹波市春日町黒井2956です。
清和源氏頼季の子井上満実の三男家光が、保元(ほうげん)三年(1158)故あって丹波芦田庄(兵庫県丹波市青垣町東芦田)へ 流され同庄に住したことから芦田と称したそうです。
海野・滋野氏系は、白鳥神社です。住所は長野県東御市本海野1204-1です。
依田氏系の芦田氏は、依田神社です。住所は長野県上田市御嶽堂403です。
清和源氏満快流の源為公が信濃守となって信濃に下り、そのうち依田庄を開発した源為実が依田氏と称したそうです。
その後、室町期に芦田郷に侵入した依田備前守光徳が海野・滋野系芦田氏を滅ぼして芦田氏と称したそうです。
安曇(あずみ)
志賀海神社(しかうみじんじゃ)です。
安曇氏(あずみし)発祥の地だそうです。
穂高神社(ほたかじんじゃ)です。
5世紀ごろに安曇族が定住し、律令制のもとで信濃国安曇郡(長野県安曇野市)になりました。その安曇族が祖神を祀ったのが穂高神社です。
阿蘇(あそ)
阿蘇神社(あそじんじゃ)です。住所は熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1です。
古代より系譜の明らかな阿蘇神社の大宮司家です。阿蘇山を神体山として、その祭祀権を司る事で王権を確立した古代豪族の末裔です。大和朝廷に従属し、阿蘇国造となりました。最初は宇治姓を名乗っていたそうです。鎌倉時代に武家化し、源氏方に属し阿蘇の姓を賜って阿蘇氏と称するようになったそうです。一時期は戦国大名になるまで発展しましたが、島津氏に負け、阿蘇神社の社家として存続しました。
麻生(あそう)
春日神社です。住所は福岡県北九州市八幡西区藤田1丁目10-44です。
麻生氏は、姓は藤原氏で、鎌倉初期に下野の藤原氏流宇都宮氏の一族が北条氏得宗領になった山鹿秀遠の遺領に入ったのが始まりだそうです。
1249年(建長1年)北条氏被官の麻生資時が〈山鹿荘内麻生荘〉(福岡県北九州市八幡東区)の地頭代に任ぜられて、麻生氏の祖となりました。
足立(あだち)
足立神社です。住所は埼玉県さいたま市西区飯田(大字)54です。
足立氏は、姓は藤原氏で、藤原北家流遠兼の子、藤原遠元が武蔵国足立郡殖田郷の地頭職を得て、足立氏と称したそうです。
阿南(あなん)
宇田姫神社です。住所は大分県豊後大野市清川町三玉宇田1493です。
宇佐神宮です。
神婚伝説のある豊後大神氏の祖先とされる大神惟基(おおがみこれもと)の次男大神惟季(おおがみこれすえ)が豊後国大分郡阿南郷(大分県由布市庄内町と挾間町の辺り)に住して、阿南氏と称しました。豊後国でも最も由緒のある氏姓の1つです。
本当は、大神惟基(おおがみこれもと)は大和大神氏の支流である大神良臣(おおみわのよしおみ)の子である大神庶幾(おおみわのこれちか)の子と言う説が有力だそうです。
宇佐神宮の宮司であった宇佐大神氏の支流という説もあります。
阿比留(あびる)
住吉神社(鶏知(けち))です。住所は長崎県対馬市美津島町鶏知字甲(ながさきけんつしましみつしままちけちあざこう)1281です。
阿比留(あびる)氏は、元々、上総国畔蒜郡(かずさのくにあびるぐん)(千葉県袖ヶ浦市付近)に住んでいたので阿比留と称したそうです。
刀伊(とい)の入寇の際に防人(さきもり)として対馬に派遣され、国司に代わって在庁官人として実権を握りました。
阿比留氏は美津島町鶏知に居館を営んでいました。やがて、宗氏に滅ぼされ、対馬の国主の地位を奪われた後はこの神社の神主家になりました。
阿倍・安倍(あべ)、阿閉(あへ)
阿倍氏または阿閉氏は、大彦命(おおひこのみこと)を始祖とする氏族です。中央豪族の阿倍氏(あべし)と地方豪族で伊賀国を本拠地とした阿閉氏(あへし)の両系統がありました。阿閉氏は、朝鮮半島にあった任那との関係が深く、外交に従事しました。
阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)です。
阿倍野(あべの)は古代の豪族・阿倍氏(あべし)、後の安倍氏・土御門氏の居住した土地だそうです。
安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ)です。
安倍晴明公の生誕地だそうです。
晴明神社(せいめいじんじゃ)です。
安倍晴明公の屋敷跡だそうです。
立石熊野神社(たていしくまのじんじゃ)です。
安倍晴明公が開基した神社だそうです。
安倍文殊院(あべもんじゅいん)です。
左大臣・安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が開基した安倍一族の氏寺です。安倍晴明公が当時天文観測の地としたそうです。近くには、安倍晴明公を祀った御門神社(みかどじんじゃ)があります。住所は奈良県桜井市阿部(ならけんさくらいしあべ)752のとなりです。
敢國神社(あえくにじんじゃ)です。
大彦命が四道将軍として北陸を平定した後、一族で伊賀に移住し、伊賀国の開拓を行ったそうです。近くに大彦命の墓と伝わる御墓山古墳があるそうです。子孫は伊賀国中に広がり、阿拝郡(あへのこおり)を本拠としたため阿拝氏と称したそうです。阿拝氏、阿閉氏、阿倍氏、安倍氏と変化したようです。
陸奥国一宮・塩釜神社です。
奥州阿倍氏・安倍氏は、塩釜神社の社家です。陸奥国の古代豪族でしたが、源頼義(みなもとのよりよし)によって滅ぼされてしまいました。奥州藤原氏とは婚姻関係があり、奥州藤原氏の繁栄につながります。子孫は安倍貞任(あべのさだとう)の子孫を名乗る津軽安東氏・安藤氏、その後裔で戦国大名の秋田氏、安倍宗任(あべのむねとう)の子孫を名乗る九州松浦党などがあります。
安保(あぼ)
阿保神社(あぼじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町元阿保(さいたまけんこだまぐんかみかわまちもとあぼ)1です。
延暦(えんりゃく)三年(784年)に阿保朝臣人上(あぼのあそんにんじょう)が創建したとも伝えられているそうです。
この人は安保氏の先祖とは、直接関係はありません。
池上神社(いけがみじんじゃ)です。住所は埼玉県児玉郡神川町関口(さいたまけんこだまぐんかみかわまちせきぐち)38です。
もとは、阿保神社の裏に鎮座していましたが、天正(てんしょう)五年(1577年)に元阿保村と関口村とに別れた際に、関口村の鎮守として現在の地に移転されたそうです。
安保氏は、姓は多治比氏で、武蔵国賀美郡安保郷(埼玉県児玉郡神川町元阿保(さいたまけんこだまぐんかみかわまちもとあぼ))を本拠として安保氏を称したそうです。武蔵七党の内の一つ、丹党です。
尼子(あまご)
富田八幡宮(とだはちまんぐう)です。住所は島根県安来市広瀬町広瀬(しまねけんやすぎしひろせちょうひろせ)85です。
この神社は勝日高守神社の里宮であり、富田城の鎮守として歴代城主、特に尼子氏に氏神として崇敬されました。
勝日高守神社(かつひたかもりじんじゃ)です。住所は島根県安来市広瀬町富田(しまねけんやすぎしひろせちょうとだ)782です。
この神社は月山富田城・本丸一番奥にあります。代々城内の守護神でした。
比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)です。住所は島根県安来市伯太町横屋(しまねけんやすぎしはくたちょうよこや)844-1です。
比婆山(ひばやま)に関するサイトです。
古事記によると、伊邪那美之尊(いざなみのみこと)の埋葬された場所だそうです。本当?尼子経久の崇敬が篤(あつ)かったそうです。
尼子神社(あまこじんじゃ)です。住所は兵庫県赤穂市高野(ひょうごけんあこうしこうの)302です。
この神社は尼子義久(あまごよしひさ)を祭神として祭っています。
甲良神社(こうらじんじゃ)です。住所は滋賀県犬上郡甲良町尼子(しがけんいぬがみぐんこうらちょうあまご)1です。
この神社は戦火で資料が消失して由緒が不明ですが、佐々木神社の神紋(しんもん)と同じ四つ目が使われていることから、宇田源氏・佐々木氏と関係がある神社と考えられます。
尼子氏は、宇多源氏・佐々木氏流、京極氏の支流です。近江国犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県犬上郡甲良町尼子)を本拠としたことから尼子と称したそうです。本家で、主君でもある京極氏から出雲守護代に任命された尼子氏は出雲国に下向しました。その子孫、尼子経久が下克上をして、尼子氏は戦国大名に発展しました。戦国大名毛利氏との争いに敗れて、領国を失いましたが、尼子宗家は毛利家の家臣となり、現在まで存続しています。「尼子一族会」という集まりが、5年に一度、島根県安来市広瀬町で開催されるそうです。
天野(あまの)
春日大社です。
天野氏に直接関係する神社は見つかりませんでした。
天野氏は、藤原南家工藤氏の支流です。伊豆国田方郡天野郷(静岡県伊豆の国市天野)に居住したので天野と称したそうです。
雨宮(あめみや)
雨宮坐日吉神社(あめみやにますひよしじんじゃ) です。住所は長野県千曲市雨宮1です。
雨宮氏は、清和源氏村上氏の支流で、信濃国埴科郡雨宮(しなののくにはにしなぐんあめみや)(長野県千曲市雨宮)を領した事から雨宮と称したそうです。
新井(あらい)
新井八幡宮です。住所は群馬県太田市新井町546-3です。
清和源氏新田氏流新井氏は、新田良房(にったよしふさ)の二男、新田覚義(にったかくよし)が上野国新田郡新井村(群馬県太田市新井町)を領した事から新井と称したそうです。子孫には、江戸時代の旗本で、学者として有名な新井白石がいるそうです。
高麗神社(こまじんじゃ)です。
高麗氏流(こましりゅう)新井氏は、高麗王若光(こまこきしじゃっこう)の子孫が日高市の巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれる盆地にある旧新井家住宅のあたりに住して新井氏と称したそうです。
新垣(あらがき)
新垣グスクです。住所は沖縄県糸満市新垣(おきなわけんいとまんしあらかき)1068-1です。
新垣(あらかき、しんがき)氏は、沖縄県糸満市新垣・名城(なしろ)に多いそうです。
荒川(あらかわ)
久麻久神社(くまくじんじゃ)です。
住所は愛知県西尾市八ツ面町麓(あいちけんにしおしやつおもてちょうふもと)26の家の前の通り(県営八ツ面住宅裏)の八ツ面山中腹です。
荒川氏は、清和源氏・足利将軍家の一族、戸賀崎氏の庶流が三河国幡豆郡(みかわのくにはずぐん)(愛知県西尾市)の八ツ面山の北側の麓(ふもと)に荒川城を築き、荒川氏と称したそうです。近隣の真成寺に、初代の荒川義広の墓所があります。
荒木(あらき)
厄除八幡神社(やくよけはちまんじんじゃ)です。住所は兵庫県篠山市曽地中(ひょうごけんささやましそうじなか)326の辺りです。
荒木氏は、藤原秀郷流あるいは、清和源氏吉見氏流とも言われ、篠山市に築かれた細工所城・城主として波多野氏に仕えた荒木氏綱(あらきうじつな)を開祖とします。
有村(ありむら)
若宮神社(わかみやじんじゃ)です。住所は鹿児島県鹿児島市有村町(かごしまけんかごしましありむらちょう)478です。
有村氏は、氏姓は不明ですが、薩摩藩の士族で、薩摩国桜島の有村(鹿児島県鹿児島市有村町)が発祥のようです。
有吉(ありよし)
白鬚神社(しらひげじんしゃ)です。
阿知江磯部神社(あつえいそべじんじゃ)です。住所は京都府与謝郡与謝野町岩屋(きょうとふよざぐんよさのちょういわや)763です。
この神社は、江戸時代は白髪大明神と称していたそうです。
有吉氏は、宇多源氏佐々木氏支流で丹後国与謝郡(京都府与謝郡)を本拠にしていたようです。熊本藩・細川家家老の有吉家が有名です。1542年に佐々木から有吉に改めたそうです。有吉家の22代目有吉登聖(ありよしたかまさ)氏によると氏神は白髭大明神だそうです。
在原(ありわら)
在原神社(ありわらじんじゃ)です。住所は奈良県天理市櫟本町(ならけんてんりしいちのもとちょう)3916です。
在原氏は、阿保親王(あぼしんのう)の子孫です。この神社は歌人として有名な在原業平(ありわらのなりひら)の邸宅跡で、当初は在原寺だったのですが、現在は、阿保親王と在原業平を祭神とする神社になっています。
安斎(あんざい)
福島稲荷神社(ふくしまいなりじんじゃ)です。住所は福島県福島市宮町(ふくしまけんふくしましみやまち)1-29です。
安斎氏は、福島県に多い苗字(みょうじ)で氏姓は不明ですが、福島県福島市大町3-27辺りに盛岡藩の脇本陣安斎家がありました。この本家の子孫だと思われます。
安西(あんざい)
安房神社(あわじんじゃ)です。
安房国(千葉県)安西氏は、安房神社祭神・子孫の忌部氏流と言われ、鎌倉時代に安房国西部の地頭を務めた大豪族でした。安房国西部を支配したことから安西と称したそうです。東京湾を隔てた三浦氏とは交流が深かったようです。
麓山神社 (はやまじんじゃ)です。
麓山神社 (はやまじんじゃ)は静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)の境内社で、安西1丁目・安部町の氏神です。
徳川幕府の旗本の安西氏は、桓武平氏三浦氏流で、駿河国阿倍郡服織荘安西郷(静岡県静岡市葵区安西(しずおかけんしずおかしあおいくあんざい))発祥だそうです。
安藤・安東(あんどう)
宗任神社(むねとうじんじゃ)です。住所は茨城県下妻市本宗道(いばらきけんしもつましほんそうどう)89です。
前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)に破れて、安倍貞任(あべのさだとう)は討たれ、弟の安倍宗任(あべのむねとう)は、四国に配流され、九州に再配流されました。その安倍貞任・安倍宗任兄弟を祀った神社です。
陸奥国一宮・塩釜神社です。
安藤氏の子孫は塩釜神社の社家だそうです。
藤巖神社(とうがんじんじゃ)です。住所は和歌山県田辺市湊(わかやまけんたなべしみなと)655です。
明治19年に建立された田辺藩・初代藩主安藤直次公を祀った神社です。
熊野神社(くまのじんじゃ)です。住所は神奈川県横浜市瀬谷区阿久和東(かながわけんよこはましせやくあくわひがし)4-7-1です。
平安時代の頃には既に聖地とされていたそうです。旗本安藤家が相模国鎌倉郡阿久和村(横浜市瀬谷区阿久和の周辺)を知行したため、神社を再興したそうです。
安東氏は、蝦夷に分類される津軽地方の豪族で、十三湊を本拠にしていました。鳥羽院より藤原氏の姓を与えられ、両氏の文字を合わせて安藤氏と称したそうです。安倍貞任(あべのさだとう)が始祖だそうです。子孫は、塩釜神社の社家や戦国大名秋田家、三河国の安藤氏とその分家の旗本阿久和安藤氏などと、大変繁栄しました。
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以上
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