氏神神社(有名氏族)関連リンク。
旧ブログ記事を更新(初出2019年4月19日)
Guardian deity shrine (famous clan) related Links.
第1章
源氏(げんじ)・源(みなもと)
坐摩神社(いかすりじんじゃ)です。
最初の源氏は嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏です。平安時代初期に朝廷の一大勢力になりました。源融(みなもとのとおる)の系統は、地方に土着して武家源氏になりました。子孫は渡辺氏、松浦氏、蒲池氏です。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。この神社は伊勢神宮と並んで二所宗廟の一社です。
源氏の中で最も多いのが清和天皇を祖とする清和源氏です。藤原良房(ふじわらのよしふさ)が清和天皇の即位を宇佐神宮に祈願したところ、願いがかなったので、氏神として宇佐神宮(うさじんぐう)の分霊を京都に勧請(かんじょう)したのが建立の由来です。以来、朝廷・藤原北家にとって、伊勢神宮に次ぐ重要な神社になりました。当然、清和天皇系の源氏に篤(あつ)く崇敬されました。
六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)です。源経基(みなもとのつねもと)が祭神です。
源経基(みなもとのつねもと)は清和天皇の第六皇子貞純親王(さだずみしんのう)の子であり、天皇の孫であることから「六孫王(ろくそんのう)」と呼ばれたそうです。嫡子で、この神社を建立した源満仲(みなもとのみつなか)が清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」と称しているそうです。
多田神社(ただじんじゃ)です。
清和源氏は、畿内に始まり各地に広がって、源満仲(みなもとのみつなか)の子から摂津源氏、河内源氏とに分かれたそうです。さらに、摂津源氏は多田源氏、美濃源氏などに分かれました。摂津源氏の氏神は多田神社(ただじんじゃ)です。多田神社(ただじんじゃ)は清和源氏武士団発祥の地であり、この地に居城を構えた源満仲によって天禄元年(970年)に天台宗寺院として建立されました。鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性
(そう・にんしょう)による再建以降、真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院でしたが、神仏分離令の際に神社になりました。
壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)です。
河内国を本拠地とした河内源氏の源義家(八幡太郎義家)の系統は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表されるように清和源氏の中で最も栄えました。河内源氏は石川源氏、甲斐源氏、常陸源氏、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などの支流に分かれました。武家の棟梁・河内源氏の氏神だそうです。石川源氏(いしかわげんじ)は、河内源氏の本拠地である河内国石川を相続した源氏だそうです。源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時(みなもとのよしとき)を祖とする河内源氏義時流石川氏の氏神です。
大宮八幡宮(おおみやはちまんぐう)です。
この神社は、源頼義が源氏の氏神として京都の石清水八幡宮を杉並区大宮に勧請し、建立しました。
鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)です
この神社は源頼朝が源氏の氏神として京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請し、建立しました。鎌倉幕府の庇護を受けて発展しました。
沙沙貴神社です。住所は滋賀県近江八幡市安土町常楽寺(しがけんおうみはちまんしあづちちょうじょうらくじ)1です。
次に源氏になったのは宇多天皇を祖とする宇多源氏です。庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家氏族、佐々木氏、出雲源氏諸氏などがそうです。中でも、武家源氏として発展したのが、佐々木源氏です。
菱妻神社(ひしづまじんじゃ)です。住所は京都府京都市伏見区久我石原町(きょうとふきょうとしふしみくこがいしはらちょう)3-27です。 次に源氏になったのは村上天皇を祖とする村上源氏です。公家源氏(くげげんじ)です。久我家、中院家、六条家、岩倉家、千種家、久世家、東久世家、梅渓家、愛宕家、植松家、北畠氏などです。源氏長者は久我家が室町幕府ができるまで、代々、引き継いできたのですが、以後、足利家、徳川家に奪われました。
第2章
平氏(へいし)・平(たいら)
平野神社です。
この神社は、桓武天皇が平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請(かんじょう)したのに始まります。桓武天皇・生母の高野新笠(たかののにいがさ)と縁の深い神社でもあります。例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていました。二十二社(にじゅうにしゃ)の上七社(かみななしゃ)の内のひとつです。天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公家と武家の総氏神です。源氏、平氏、高階、大江、菅原、中原、清原、秋篠各氏の氏神です。江戸時代の伝奏役は、代々、西洞院家(にしのとういんけ)が勤めました。平氏には桓武天皇から出た桓武平氏他、四系統あります。しかし、後世に残ったのは葛原親王(かずらわらしんのう)の子孫の桓武平氏だけです。
高棟王流(たかむねおうりゅう)は、公家平氏(くげへいし)の系統です。葛原親王・長男の高棟王(たかむねおう)の子孫です。高棟王は天長二年(てんちょう・にねん)825年に賜姓を受けて平高棟(たいらのたかむね)となりました。公家として京都で繁栄しました。平安時代末期の平清盛の正室・平時子(二位尼)と、その弟の平時忠、異母妹の建春門院平滋子などがこの家系です。平時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落しましたが、平時忠の弟・平親宗(たいらのちかむね)の子孫(唐橋家)や叔父・平信範(たいらののぶのり)の子孫(西洞院家・安居院家(あごいんけ)・烏丸家(からすまるけ)は鎌倉時代以降も公家として存続しました。子孫には、平松家・長谷家・交野家・石井家があります。
高望王流(たかもちおうりゅう)は、武家平氏(ぶけへいし)の系統です。葛原親王・三男の高見王(たかみおう)の子・高望王(たかもちおう)の子孫です。高望王は、賜姓を受けて平高望(たいらのたかもち)となり、昌泰元年(しょうたい・がんねん)898年に上総介に任命され、子の平国香(たいらのくにか)・平良兼(たいらのよしかね)・平良将(たいらのよしまさ)を伴い任地に下向したそうです。そして任期が過ぎても帰京せず、平国香は常陸大掾(ひたちのだいじょう)(子孫は大掾氏(だいじょうし)と称しました。)、平良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し、武家平氏の基盤を固めました。
近殿神社(ちかたじんじゃ)です。住所は神奈川県横須賀市大矢部(かながわけんよこすかしおおやべ)1-9-17です。「三浦氏」
五所神社です。「土肥氏」
秩父神社です。「秩父氏」
千葉神社です。「千葉氏」
また、高望王の側室の子・平良文(たいらのよしふみ)もその後坂東に下り、平良文の子孫が坂東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となりました。特に平良文流(たいらのよしふみりゅう)の坂東平氏を坂東八平氏と言います。
神田明神(かんだみょうじん)です。
築土神社(つくどじんじゃ)です。
国王神社(こくおうじんじゃ)です。
御首神社(みくびじんじゃ)です。
鎧神社(よろいじんじゃ)です。
平の将門公に縁のある神社です。平良将(たいらのよしまさ)の子が平将門公です。。
相馬中村神社です。住所は福島県相馬市中村北町(ふくしまけんそうましなかむらきたまち)140です。
平将門公の子孫と言われている相馬氏の氏神です。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)です。住所は広島県廿日市市宮島町(ひろしまけんはつかいちしみやじまちょう)1-1です。
赤間神宮(あかまじんぐう)です。
平国香(たいらのくにか)の孫・平維衡(たいらのこれひら)よりはじまる一族が伊勢平氏です。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛(たいらのまさもり)の系統は「平家(へいけ)」と呼ばれます。平正盛の子・平忠盛(たいらのただもり)が初めて昇殿を許され、平忠盛の子・平清盛公は平氏政権を樹立し栄華を誇りましたが、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。平清盛公は平氏長者になりました。その平清盛公が造営した世界文化遺産・厳島神社が伊勢平氏の氏神です。また壇ノ浦にある赤間神宮には平家一門の墓所があります。
第3章
藤氏(とうし)・藤原(ふじわら)
枚岡神社(ひらおかじんじゃ)です。
社伝によると、枚岡神社(ひらおかじんじゃ)の創祀は、初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)が大和の地で即位される3年前と伝えられています。神武東征の砌(みぎり)、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋命(あめのこやねのみこと)・比売御神(ひめのおおかみ)の二神を、霊地神津嶽(れいちかみつだけ)に一大磐境(いちだいいわさか)を設け、祀られたのが枚岡神社の創祀とされているそうです。
談山神社(たんざんじんじゃ)です。
祭神は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公です。神仏分離令以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といったそうです。鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。大宝元年(たいほう・がんねん)701年には神殿が創建され、神像を祀ったそうです。
春日大社です。
社伝によると、春日大社は、約1300年前、平城京遷都の頃に、鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を御蓋山(みかさやま)山頂の浮雲峰(うきぐものみね)に遷して祀り、春日神(かすがのかみ)と称したことに始まります。神護景雲二年(じんごけいうん・にねん)768年11月9日、称徳天皇(しょうとくてんのう)の勅命により左大臣・藤原永手(ふじわらのながて)が社殿を造営して香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)、また枚岡神社から天児屋命(あめのこやねのみこと)・天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)を勧請(かんじょう)して合祀し、現在の春日大社になったそうです。
大原野神社(おおはらのじんじゃ)です。
社伝によると、延歴三年(えんりゃく・さんねん)784年に桓武天皇が都を奈良から長岡京(現向日市)に遷されたとき、天皇はしばしば大原野に遊んで鷹を放たれました。藤原氏の人や多くの供奉の人達はこの美しい風景を賞でて、氏神・春日大社の分霊を遷し祀ることにしたので、創建されたそうです。嘉祥三年(かしょう・さんねん)850年、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)を祖父に持つ文徳天皇(もんとくてんのう)が社殿を造営しました。藤原氏の一族では女が生まれると、中宮や皇后になれるように、この神社に祈り、幸にして女が祈願通りの地位につくと、美くしく行列を整えて参拝することが例となったそうです。
藤原氏の始まりは、藤原不比等(ふじわらのふひと)です。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)が天智天皇から大化の改新などの功績によって、藤原の姓を与えられました。中臣鎌足の出生地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)であり、姓の由来は地名からです。しかし、その従兄弟(いとこ)で、中臣鎌足没後に中臣氏の一族の長であった中臣金(なかとみのかね)が壬申の乱の時に大友皇子側だったために、中臣金は斬り殺され、中臣氏は一挙に没落します。中臣鎌足の息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)は文武天皇(もんむてんのう)の後見として、政治の世界に復活してきます。その背景には橘三千代(たちばなのみちよ)を後妻に迎えたことがあるそうです。娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)が文武天皇の夫人になり、藤原朝臣(あそん)姓の名乗りが藤原不比等の子孫に限定され、藤原氏=藤原不比等家が成立しました。
藤原不比等には四人の息子がいました。それぞれが独立して藤原四家になりました。
藤原南家:藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
藤原北家:藤原房前(ふじわらのふささき)
藤原式家:藤原宇合(ふじわらのうまかい)
藤原京家:藤原麻呂(ふじわらのまろ)
藤原四家とは家名ではなく、藤原氏の「南家」、藤原氏の「北家」、藤原氏の「式家」、藤原氏の「京家」の総称です。このうち「京家」は早々に没落しました。やがて政争や一族の反乱で南家・式家は平安時代前期には衰退し、北家が最も栄えることとなりました。鎌倉時代に入ると、藤原氏の嫡流は藤原北家から分かれた近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立しました。五摂家から藤氏長者が選ばれました。藤原は氏であり家名でも名字でもないため、明治以前においては「藤原家」と称する公家は存在しません。「藤」の一字と、地名や役職名などを組み合わせて多くの名字が作られています。現在「藤裔会」として、年1回秋頃に全国の藤原氏の末裔が奈良市の春日大社に集合し、親睦を兼ねた会合などが執り行われているそうです。
第4章
橘氏(たちばなし)・橘(たちばな)
梅宮大社です。
社伝によると、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)により橘氏一門の氏神として山城国相楽郡に創建されたのに始まります。平城京への遷都の際に、県犬養三千代の娘である光明皇后(こうみょうこうごう)と牟漏女王(むろのおおきみ)によって奈良に遷座し、さらに木津川の上流に遷座しました。平安遷都の際、橘氏の出の壇林皇后(だんりんこうごう)によって現在地に遷座されました。以後、橘氏の氏神社として崇敬を受けました。
玉津岡神社(たまつおかじんじゃ)です。住所は京都府綴喜郡井手町井手東垣内(きょうとふつづきぐんいでちょういでひがしがいと)63です。
橘諸兄(たちばなのもろえ)は井堤郷(いでのごう)を本拠地にしていました。そのため、この地には、橘諸兄公の屋敷があり、橘氏の氏寺・井堤寺(いでじ)もありました。この神社は橘諸兄が一族の氏神として創建したそうです。
橘氏は、橘三千代(たちばなのみちよ)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜ったことに始まります。県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にありました。県犬養三千代は、初め美努王(みぬおう)の妻となり、葛城王(かずらきのみこ)や佐為王(さいのみこ)を生みました。694年に美努王が大宰帥(だざいのそち)として九州へ赴任すると、別れて、藤原不比等(ふじわらのふひと)の夫人となり、藤原光明子(ふじわらのこうみょうし:光明皇后)らを生みました。藤原不比等は持統天皇三年(じとうてんのう・さんねん)689年、段階では直広肆・判事の職にあった下級官人で、文武天皇元年(もんむてんのう・がんねん)697年8月には不比等の娘・藤原宮子(ふじわらのみやこ)が即位直後の文武天皇(もんむてんのう)夫人となり、藤原朝臣(あそん)姓が藤原不比等とその子孫に限定され藤原氏=藤原不比等家が成立します。
こうした文武天皇即位に伴う藤原不比等の栄達の背景には、阿閇皇女(あへのひめみこ)の信頼を受けた橘三千代の存在があったと考えられています。慶雲四年(けいうん・よねん)708年7月壬午(みずのえうま)(17日)には阿閇皇女は即位し、元明天皇(げんめいてんのう)になりました。元明天皇即位に伴い藤原不比等は右大臣に任じられています。癸未(みずのとひつじ)(25日)の御宴において橘三千代は元明天皇から、天武天皇(てんむてんのう)の代から仕えていることを称されて、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となりました。橘三千代が天平五年(てんぴょう・ごねん)733年に没すると、天平八年(てんぴょう・はちねん)736年11月11日に橘三千代の子の葛城王(かずらきのみこ)と佐為王(さいのみこ)が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許されました。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為(たちばなのさい)を称しました。この橘諸兄が最も出世したのですが、藤原氏との政争に負けて失脚してしまいます。橘諸兄は初代・橘氏長者です。
橘氏は永観元年(えいがん・がんねん)983年に参議・橘恒平(たちばなのつねひら)が没したのを最後に公卿が絶え、寛和年間(かんな・ねんかん)985年~987年に、藤原道隆(ふじわらのみちたか)の外祖母が橘氏出身であったため、橘氏長者の地位は藤原北家が獲得しました。これを是定(ぜじょう)といいます。その後、橘好古(たちばなのよしふる)の孫にあたる子孫が嫡流として続き、中世にはこの系統から橘氏唯一の堂上家で、代々、橘氏長者となった薄(すすき)家を輩出しました。しかし、薄(すすき)家も山科言継(やましなときつぐ)の子で薄(すすき)家に養子入りした薄諸光(すすきもろみつ)の死により、16世紀後半に断絶しました。
第5章
豊臣氏(とよとみし)・豊臣(とよとみ)
日吉大社(ひよしたいしゃ)です。
豊臣秀吉は、比叡山焼き討ちで灰燼に帰した日吉大社の復興に尽力しました。これは豊臣秀吉の幼名が「日吉丸」であるなど、自分との特別な関係を感じたからだそうです。
豊国神社です。住所は京都府京都市東山区大和大路通り正面茶屋町
(きょうとふきょうとしひがしやまくやまとおうじどおりしょうめんちゃやちょう)530です。
豊臣秀吉は、はじめ平氏を称していました。これは単純に主君・織田信長の氏を模倣したものです。その後、天正一三年(てんしょう・じゅうさんねん)1585年7月、関白に就任するにあたり、前関白・近衞前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし)となって藤原氏に改め、更に豊臣氏に改めました。豊臣秀吉は特別に傑出した人物であるから、源平藤橘にならぶ第五の新しい氏を創始できるということが理由のようです。豊臣氏は、源平藤橘にならぶ第五の氏姓として構想されたものなので、源平藤橘同様の大姓として広く普及することが期待されました。しかし、大坂夏の陣(おおさかなつのじん)で羽柴宗家が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の、公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめました。例えば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めています。ただ、秀吉の正妻・高台院(こうだいいん)の兄弟たち及びその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けています。豊臣を本姓とする大名家として、備中足守(びっちゅう・あしもり)藩、二万五千石の木下家と、豊後日出(ぶんご・ひじ)藩、二万五千石の木下家があります。
豊氏長者(ほうしちょうじゃ)の新設。既に平安時代には解体し、形骸化していた氏ですが、藤氏長者・源氏長者などの役職、氏爵などの慣習が儀礼的に存続していました。豊臣秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねています。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで氏長者を設置しています。豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限も掌握していました。秀吉は関白に就任する際、近衛家に対して、将来的には近衞前久(このえさきひさ)の子息・近衛信尹(このえのぶただ)に関白職を返す約束をしたそうですが、豊臣秀吉はこの約束を守らなかっただけでなく、それまで五摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのでした。近衛信尹は豊臣秀吉が豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)に関白位を譲ったことに失意を感じたようですが、豊臣氏の滅亡によって、再び、関白になり、藤氏長者も近衛家に取り戻しました。
豊臣秀吉の姉の日秀尼(にっしゅうに)と、その夫・三好吉房(みよしよしふさ)の間には、豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)・豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)・豊臣秀保(とよとみのひでやす)が生まれましたが、その内、豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)は、浅井江(あざいごう)を正室に迎えました。二人の間に産まれた豊臣完子(とよとみのさだこ)は、淀殿(よどどの)に養育され、後に九条幸家(くじょうゆきいえ)に嫁いでいます。九条家を通じて、豊臣完子(とよとみのさだこ)の子孫は天皇家に続いています。
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