稲荷信仰で現世利益を得る。
旧ブログ記事を更新(初出2017年9月19日)
In the Inari faith, people receive benefits in this world.
Obtain worldly interests by the inari faith.
プロローグ
飲食店などお店を経営している人、インターネットで起業してネット販売サイトを運営している人、個人事業主から中堅企業までの会社経営者等の人が人事を尽くした後、神頼みをするとしたら、最も相応(ふさわ)しい神社は稲荷神社です。実際、現世利益の御利益が確かにあると言うことで、多くの個人商店等がお店の片隅にお稲荷さんの小さな祠(ほこら)を祭っているのを見かけることがあるでしょう。そこで、稲荷神社の特徴を説明し、お稲荷さんを信仰するときの心構えについて紹介します。
第1章 稲荷神社の特徴
一般に神社はお参りしたときのみ、神様にお願い事ができるとされています。そして、正式に参拝して神札(おふだ)を頂いたり、お守(まも)りを購入したりする場合は、一年間有効ですので、翌年、古札(こさつ)を納めつつ、新しく神札(おふだ)を頂く方が良い言われます。こうした慣習は、次のような意味があると言えます。
お参りした神社の神札(おふだ)を自宅の神棚(神棚がない家の場合は自宅の中心で、できる限り清浄で、神札(おふだ)の上を家人が歩かないような場所に置きます。)に置いて、毎日、手を合わせてお祈りをすることによって、実際に神社に行かなくても行ったことの代わりになると言うことです。つまり、神社と自宅の間にホットラインが引かれていて、リモートでアクセスできるような感覚です。このホットラインが一年間有効と考えることができます。
それに対して、一般の神社では勧請(かんじょう)すると言う行為はかなり難しく。京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を鎌倉に勧請(かんじょう)して、鎌倉の由比ヶ浜辺に祀(まつ)った源頼義と、現在地に移して鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を建立した源頼朝公ぐらいの政治的・経済的な力が必要なのですが、稲荷神社に限っては一般の人でも比較的簡単に勧請(かんじょう)することができます。具体的な勧請(かんじょう)の仕方は各稲荷神社の本宮に確認する必要があります。この場合は、次のような意味があると言えます。
自宅に稲荷神社の御神体を奉斎する部屋を作った、又は、自宅の庭に邸内祠(ていないし)として稲荷神社を建立した家族にとっての専任のスーパー執事を雇ったような感覚です。このスーパー執事は稲荷大神の眷属(けんぞく)神ですので、いわゆる神様です。ですので、決して自宅の庭の祠(ほこら)に閉じ込められているような存在ではありません。彼の本拠はあくまで勧請(かんじょう)してきた元の本宮です。つまり、住み込みの執事ではなく、通いの執事なのです。勧請(かんじょう)した家族の為(ため)に、その家が繁栄するようにいろいろと働いてくれるわけです。これが稲荷神社の特徴です。
第2章 稲荷信仰するときの心構え
稲荷信仰の基本は家の隆盛です。つまり、個人の開運や、個人の金運改善などは目的とするべきではありません。元々、お稲荷さんは、稲作と結び付いていて、米作りをしている農家が豊作を祈願する神様でした。時代を経るに従って、商業一般の繁栄のためにもお祭りするようになってきました。したがって、あなたが一人ならば個人の意思で稲荷信仰を始めても構いませんが、結婚している場合や、家族がいる場合は、家族全員でよく話し合ってから、稲荷信仰を始めるかどうか決めましょう。
お稲荷さんとの約束は、予(あらかじ)め、自分で決めた稲荷神社の本宮で稲荷の神様の御分霊を頂く際に、「私(わたくし)一代限りで本宮にお戻しします。」という約束にしない限り、子々孫々に受け継がれていくものだからです。つまり、勝手にやめることはできません。やめるならば、それ相当の儀式を稲荷神社の本宮に依頼して、自宅に招いた御分霊に本宮に戻っていただく必要があります。
当然の事ながら、個別の願い事ではなく、家内安全・家族の健康・家の隆盛(子孫が増える・裕福な家になる)などを祈願する事になります。つまり、稲荷信仰を始める場合は、その家の男性よりも女性の方が適切です。祖母から、母へ、母から嫁へとその家の女系で代々お稲荷さんへの信仰を守り続けるのが望ましいです。
ただし、女性の場合でも、龍神系の女性と稲荷系の女性がいます。雨女の場合は龍神系の場合が多く、逆に、晴れ女の場合は稲荷系の場合が多いです。雨女の女性はお稲荷さんをお祭りしない方が無難です。晴れ女の女性は、実家にお稲荷さんがあるとか、既にお稲荷さんに守られている可能性があります。
お稲荷さんの参拝手順
お供え物は毎日、米・塩・水をお供えし、1日・15日には榊(さかき)も新しいものに替えましょう。基本は、普通の神社から神札をもらってきて、入れてある神棚に対する参拝の仕方と同じです。そして、家内安全と家の隆盛を祈ります。神前に進み出て、神前に向かい軽く一礼します。室内の神殿ならば神前に座ります。神棚や自宅内の邸内祠(ていないし)ならば神前に立ちます。
二礼、二拍手します。身滌大祓(みそぎおおはらい)を唱(とな)えます。二礼します。このとき、一礼は軽く、二礼は深くします。大祓詞(おおはらいのことば)を唱(とな)えます。二礼、二拍手します。稲荷心経(いなりしんぎょう)を三回唱(とな)えます。鼻から息を吸って口から軽く吐きます。丁寧に感謝の気持ちを込めてゆっくりと深く二礼します。大きく二拍手します。頭だけを軽く下げて一礼します。できたら、毎日、朝と夕方の二回この手順で祈る習慣を身につけましょう。
お稲荷さんに参拝するときに大事なことは、明るく清明な気持ちで祈りを捧(ささ)げる事です。基本は、日々、昼も夜もお稲荷さんに守っていただいている事に感謝の気持ちを捧(ささ)げる事です。
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参考図書:イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神(https://www.ebisukosyo.co.jp/item/99/)
第3章 稲荷神社関連リンク
リンク先は外部のサイト(サービス)になります。デザインも変わりますし、リンク先の安全性は不明です。リンクが切れている場合もあります。サイトが閉鎖された。あるいは、移転してしまっていて、このページの記事が新しいリンク先に更新されていないとそうなります。日本各地の代表的な稲荷神社をまとめてあります。
稲荷神社の総本社です。民衆的神道の要素が強い神社ですので、具体的な願い事をしましょう。参拝する場合は正式参拝をして、祈祷(きとう)をしてもらいましょう。時間に余裕があれば、お山巡りをするのも面白いと思います。異次元体験ができるかも知れません。御神体を頂くこともできます。自分で商売を始めるときなどは、勇気をだして試してみることも、ありかも知れません。
青森県の有名な稲荷神社です。住所は青森県つがる市牛潟町鷲野沢147-1です。
創建は定かでなく、地元住民を中心に熱心な信仰が寄せられていたそうですが、神社としては明治時代以降に発展しました。小神祠神苑(しょうしんし・しんえん)にまとめられたお塚(つか)、小祠(しょうし)、狐像(きつねぞう)、朱鳥居(あかとりい)の並んださまが独特な感じを漂わせているそうです。
東北地方で「志和のおいなりさん」と仰がれている稲荷神社です。源頼義(みなもとのよりよし)が「前九年の役(ぜんくねんのえき)」の時に勧請(かんじょう)したそうです。南部藩代々の藩主の祈願所でした。盛岡から五里にわたる参道「稲荷街道」が作られたそうです。境内には樹齢一千年を越える御神木「稲荷山大杉」があって、延命長寿をこの老杉に祈り、白狐(びゃっこ)の神毛を根本からさがしもとめる風習があるそうです。
宮城県の有名な稲荷神社です。住所は宮城県岩沼市稲荷町1-1です。
旧名称は「武隈明神」といって江戸時代は神仏習合の神社でした。社伝によると、創建は承和九年(じょうわくねん)842年、参議(さんぎ)小野篁(おののたかむら)が陸奥国(むつのくに)の国司として着任したときに、東北開発・殖産興隆を祈願して、伏見稲荷大社を勧請(かんじょう)したといわれています。平安時代には平泉(ひらいずみ)の奥州藤原氏三代の崇敬を受け、その後は、仙台藩主・伊達家歴代の庇護を受けて発展し、神仏分離令で竹駒神社になったそうです。
福島県の有名な稲荷神社です。住所は福島市宮町1-29です。
大陰陽師・安倍晴明が創建したとされる稲荷神社で、永延元年(えいえんがんねん)987年、安倍晴明が、詔を奉じて奥羽に下向した際、吹島(福島)の里にさしかかった時に、この地に信太明神の祠(ほこら)を建立したと伝えられているそうです。ただし、現在の神社の由緒書では晴明が勧請(かんじょう)したのは「豊受比売大神(とようけひめのおおかみ)」で、「伊勢神宮外宮(げくう)の御祭神」を祀(まつ)る、全国でもめずらしい稲荷神社とされています。江戸時代には福島藩の総鎮守として代々の藩主の篤(あつ)い崇敬を受けたそうです。
笠間稲荷神社は茨城県の有名稲荷神社で、日本を代表する稲荷神社として、三大稲荷のひとつと言われています。創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代(みよ)、白雉二年(はくちにねん)651年と伝えられています。当時、この地には胡桃(くるみ)の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)」とも呼ばれています。江戸時代には笠間稲荷に対する信仰が盛んになり、歴代の笠間藩主から篤(あつ)く崇敬されたそうです。
社伝によると、創建は和銅五年(わどうごねん)712年だそうです。社名の由来は、長元元年(ちょうげん・がんねん)に平忠常(たいらのただつね)が反乱を起こしたので、朝廷が長元三年(ちょうげん・さんねん)に討伐のために源頼信(みなもとのよりのぶ)を派遣し、頼信が野久稲荷神社が鎮座する所に陣をはって戦勝を祈願したところ、矢の形をした雲が敵を射るように飛んでいくのが見え、これを神の御加護だと信じた頼信軍が勝利したため、頼信は野久稲荷神社に社殿を寄進し、弓矢を意味する「箭弓」に社名を変えたのだそうです。以来、松山城主、川越城主をはじめ、多くの人に崇敬されてきました。穴宮または、団十郎稲荷と呼ばれる境内末社があり、この神社は、七代目市川団十郎が箭弓稲荷を崇敬して建立したものだそうです。芸能関係者の崇敬を受けているそうです。「箭弓」が音の上で野球に通じることから地元「埼玉西武ライオンズ」の選手をはじめ、野球関係者の参拝も多いそうです。
東京都の有名な稲荷神社です。住所は東京都北区岸町1-12-26です。
創建の時期は不明で、社伝によると平安時代に関東稲荷総司(かんとういなり・そうつかさ)として崇(あが)められ、のちに北条氏や徳川将軍家からも篤(あつ)く崇敬され、「東国三十三国」の幟(のぼり)と扁額(へんがく)を備えていたそうですが、江戸中期に徳川幕府から干渉を受けて、「関東八州」の稲荷総社として知られるようになったそうです。近くにかって装束榎(しょうぞくえのき)と呼ばれた榎(えのき)の大木があり、毎年大晦日(おおみそか)の夜には関東八州の稲荷神社の狐が集まって、装束を整えてから王子稲荷に参拝したという言い伝えがあるそうです。この装束榎(しょうぞくえのき)の伝承から、大晦日(おおみそか)の深夜、狐の面を被って装束稲荷神社から王子稲荷神社まで練り歩く「狐の行列」が行われるようになったそうです。
江戸時代より以前に大和の吉野山から勧請(かんじょう)されたと伝えられています。江戸時代に現在地に遷座した際、移転先が花園の後だったため、花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来だそうです。昭和四十年に末社の大鳥神社を本社に合祀(ごうし)して花園神社になったそうです。そのため、酉の市(とりのいち)が開かれ、浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)と並んで有名です。江戸時代から芸能と関係が深く、芸能関係者の参拝が多いそうです。境内摂社の威徳(いとく)稲荷神社は夫婦和合の御利益があるそうで、多くの女性が参拝しているそうです。
東伏見稲荷神社は京都の伏見稲荷神社から分祀(ぶんし)されたことに由来するそうです。創建は昭和四年で、皇居を守護する神社として、関東の稲荷信仰者に信仰の場を設けるため、祭神と神使の狐(しんしのきつね)とを混同するといった迷信を是正する目的で鎮座したのだそうです。創建にあたっては、伏見稲荷大社の当時の宮司・高山昇氏、西武鉄道、神道家の葦津耕次郎(あしづこうじろう)氏、神道学者の今泉定助(いまいずみさだすけ)氏などの多くの協力があったそうです。鎮座に合わせて西武線の上保谷駅は東伏見駅に改称され、のちに地名も東伏見になったそうです。
豊川稲荷は、正式には円福山豊川閣妙厳寺(えんぷくざん・ほうせんかく・みょうごんじ)という曹洞宗の寺院です。本尊は千手観音で、護法善神として、荼枳尼天(だきにてん)という天部の神様が祀られています。この荼枳尼天(だきにてん)が稲荷神と神仏習合し、仏教系の稲荷信仰が盛んになりました。豊川稲荷を祈願所とした伏見宮家・有栖川宮家から寄進された仏像も祀られています。江戸町奉行の大岡越前守忠相(おおおか・えちぜんのかみ・ただすけ)は、豊川稲荷への信仰心が強く、江戸赤坂の下屋敷に分社を勧請(かんじょう)していました。その宅内社が発展して、現在の東京都港区赤坂に鎮座する豊川稲荷別院になりました。TBSのビックハットのすぐそばにあり、ジャニーズ事務所のタレントが参拝することで有名です。
岐阜県の有名な稲荷神社です。住所は岐阜県海津市平田町三郷1980です。
京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷とともに、日本三大稲荷の一つといわれています。地元の岐阜県西濃地方など中京地方ではお千代保稲荷(おちょぼいなり)と呼ばれることが多く、通称「おちょぼさん」として親しまれています。平安時代、源義家(みなもとのよしいえ)の六男の六郎義隆(ろくろうよしたか)が分家する際、森の姓をもらいうけ、義家より「先祖の御霊を千代に保て」と祖先の霊璽(れいじ)・宝剣・義家の肖像画を授かったそうです。この言葉が千代保稲荷神社の社名の由来だそうです。文明年間(ぶんめいねんかん)1469~1487年に六郎義隆(ろくろうよしたか)の子孫の森八海という人物が当地を開発し、創建した神社だそうです。現在の宮司は十九代目だそうです。参拝の際は、普通の参拝の場合でもお賽銭をお賽銭箱に入れるのではなく、最初に油揚げとロウソクを社務所で購入し、ロウソクは献灯台に上げ、拝殿の賽銭箱の前に置かれたお供えの箱に、油揚げを入れて祈願するのだそうです。また、お札や御守りを授与しないと言うのも、この神社の特徴だそうです。
創始は不明です。中世には荒廃し、外宮に属していたかどうかも不明で、現在も摂社末社ではありません。古くこの付近は赤畝(あかうね)と呼ばれ、やがて「あかね」となまり、江戸の後期あたりから、茜の字が当てられるようになったそうです。稲荷神社については石壇(いしだん)の東北側に稲荷と称する岩窟(がんくつ)があり、土地の人がこれを豊川明神と呼んでいるそうです。豊川稲荷か、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)に由来するだろうと思われます。
社伝によると、創建は延喜三年(えんぎさんねん)903年だそうです。醍醐天皇が山階に住む外祖父・宮道氏館に行幸したときに、たまたま、道を花山のあたりに取ったところ、その夜、天皇の夢に白髪・白髭の老人が現れて、「私をこの花山の地に祀(まつ)ってくだされば、永く国民と国土を護(まもる)でありましょう」と言ったので、天皇がその名を尋ねると、老人は「私は稲荷の神」と答え、「跡たれて、光り和らぐ西の山、人の願いを三つの社に」という御神詠(ごしんえい)を高らかに繰り返しつつ、消えてしまったそうです。夢から覚めた天皇は御神託の通りに勅命を出して、上中下の社殿を造営させて、三柱の大神を勧請(かんじょう)されたと伝えられているそうです。
社伝によると、創建は垂仁天皇十八年(すいにんてんのう・じゅうはちねん)BC12年だそうです。つまり、伏見稲荷大社よりも古い時代に創建されたそうですが、よくわかりません。歴史の古い稲荷神社であることから「もといなり」とも呼ばれたそうです。
最上稲荷は、正式には最上稲荷山妙教寺 (さいじょういなりさん・みょうきょうじ)という日蓮宗に属するお寺です。京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷とともに、日本三大稲荷の一つといわれています。元々は修験僧として名高い報恩大師が天平勝宝四年(てんぴょうしょうほう・よねん)752年に吉備国山中で祈祷の際に、「最上位経王大菩薩(さいじょういきょうおう・だいぼさつ)」を感得したのが始まりで、延暦四年(えんりゃく・よねん)785年に桓武天皇の病気平癒を祈願したところ全快した功(こう)により、「天台宗・龍王山神宮寺(りゅうおうざん・じんぐうじ)」を建立しました。ところが、豊臣秀吉の備中高松城水攻めの際、焼き払われてしまいます。慶長六年(けいちょう・ろくねん)1601年、新たに領主になった花房家(はなぶさけ)は、関東地方より日円聖人(にちえんしょうにん)を招聘し、最上位経王大菩薩の聖跡を再興させました。このとき、本尊の尊像を現在地に遷座し、寺名も「稲荷山妙教寺 (いなりさん・みょうきょうじ)」と改め、天台宗から日蓮宗に改宗したそうです。
安永二年(あんえい・にねん)1773年に津和野藩(つわのはん)の第七代藩主・亀井矩貞(かめいのりさだ)は藩の鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の表鬼門(おもてきもん)にあたる東北端の太皷谷(たいこだに)の峰に京都の伏見稲荷神社から御分霊を勧請(かんじょう)したそうです。以来、歴代藩主の篤(あつ)い崇敬をうけ、明治四年(めいじ・よねん)1871年の廃藩置県(はいはんちけん)後は、普通の人の参拝も可能になったそうです。社号が「稲荷」でなく、「稲成」なのはここだけだそうです。
広島県の有名な稲荷神社です。住所は 広島県福山市草戸町1467です。
福山市草戸町は、中世、草戸千軒町(くさどせんげんちょう)と呼ばれ、芦田川に面した愛宕山の麓にある明王院の門前町として栄えた町です。明王院は真言宗大覚寺派の古刹で、鎌倉末期に庶民の信仰を得て西国一の大寺院となり、江戸時代には備後福山藩代々の藩主の祈願所として、水野家・阿部家の庇護(ひご)を受けてきたそうです。その明王院の北側に隣接しているのが草戸稲荷神社です。伝承によると、明王院は平城天皇(へいぜいてんのう)の御代(みよ)、大同二年(だいどう・にねん)に弘法大師空海によって開基されたといわれていますが、その際、同寺の鎮守として、草戸稲荷神社を斎き祀(まつ)ったのが始まりだそうです。社殿は当初、芦田川の中州に鎮座していましたが、度々洪水の被害にあったので、承応四年(じょうおう・よねん)第五代福山藩主・水野勝貞(みずのかつさだ)が現在地に遷座したそうです。現在の社殿は昭和十四年(1939年)に竣工(しゅんこう)されたもので、本殿は、昭和末期にコンクリートの土台が構築され、その上に移転しています。全国でもめずらしい断崖造りの巨大な三階建てで、福山市街を一望できます。
祐徳稲荷神社は、京都の清水寺(きよみずでら)そっくりの舞台をもつ本殿などの豪華絢爛(ごうかけんらん)な境内から「鎮西日光(ちんぜいにっこう)」ともいわれるそうです。京都の伏見稲荷、岡山の最上稲荷とともに、日本三大稲荷の一つといわれています。寛文二年(かんぶん・にねん)1662年に時の左大臣・花山院義貞(かざんいんよしさだ)の娘であった萬子媛(まんこひめ)は、肥前鹿島藩主(ひぜんかしまはんしゅ)・鍋島直朝(なべしまなおとも)のもとに京都から輿(こし)入れしました。その際、萬子媛は父親から、京都の花山院邸内に祀(まつ)られた稲荷大神の神霊を遷(うつ)した「神鏡」を授けられていたそうです。萬子媛は思うところがあって、貞享四年(じょうきょう・よねん)1687年に現在の社地に神社を建立しました。宝永二年(ほうえい・にねん)1705年に、八十歳の時に石壁山腹に「寿蔵」を築き、断食行の末、入定(にゅうじょう)を果たしました。人々はその徳を畏れ敬い、萬子媛の諡号(しごう)「祐徳院」から「祐徳稲荷神社」と称するようになったそうです。その「寿蔵」は現在は境内社・石壁神社とされ、萬子媛は神仏分離令によって、「萬子命」の神号が贈られて祀(まつ)られています。
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熊本県の有名な稲荷神社です。住所は熊本県熊本市西区上代九丁目6-20です。
社伝によると、土御門天皇(つちみかどてんのう)の御代(みよ)の明応五年(めいおう・ごねん)1496年に隈本城の初代城主・鹿子木親員(かのこぎ・ちかかず)が支城として稲荷山山頂に上代城(かみだいじょう)を築いた際、城内鎮守のため京都の伏見稲荷神社から稲荷大神を勧請(かんじょう)したのに始まるそうです。天文十年(てんぶん・じゅうねん)1541年、上代城落城の際に稲荷神社も焼失したそうです。江戸時代に稲荷山の麓の臨済宗海蔵寺(りんざいしゅう・かいぞうじ)の首座(しゅざ)・義本(よしもと)氏が社殿の建立を発願し、寛文元年(かんぶん・がんねん)1661年に稲荷山の中腹に社殿が再興され、現在地に遷座したそうです。以来、代々の熊本藩主に篤(あつ)く崇敬され、明治維新の際に細川韶邦(ほそかわよしくに)公によって境内地の五万坪が神社所有地に献納されたそうです。この時、社名も「高橋稲荷神社」と改められたそうです。
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